僕は約束を守れませんでした。
離婚後はひたすら仕事に打ち込んだ。 仕事に打ち込んだというと語弊があるかもしれない。ただ好きなことに夢中になっただけだ。 もともと数字を見ているとのめりこむ性分だった。それが見覚えの無い数字列であればあるほど夢中になる。そしてこの職場には知らない数列に事欠かなかった。 家に帰っても一人だし、他に趣味のない僕はこれといって家でやりたいことがない。 しかもこの研究所には仮眠室もシャワー室も食堂もあるので帰らなくても特に困らない。 ますます家に帰らなくなってしまった。 家に帰らない自分は皆にとても心配をかけたらしい。 電話してくれたり、メールをくれたり、食べ物を送ってくれたりした。 特に理一さんと佐久間と佳主馬くんはとても心配してくれて、とてもお世話になった。 理一さんには「上司としてはココに住んでもらってかまわないんだけど、叔父さんとしては少しは数字から離れた方がいいと思うから帰ろうね」と言われ強引に家へ送られたり (そして一緒にごはんを食べるのが常だった) 佐久間には「お前、それじゃ痩せてるを通り越して、貧相も通り越して、即身仏一歩手前だぞ。ちゃんと食え」と言われ冷蔵庫をコンビニ弁当と冷凍食品で一杯にされたり (その食料を自分も食べて一泊していくのが常だった) 佳主馬くんには一言じゃ言えないくらいいろいろお世話になった。 彼は週に一・二回うちに来て掃除やら洗濯を手伝ってくれて、ごはんを作ってくれて一緒に食べて泊まってくれた。この頃の彼の口癖が「全く、大きいぶん絵馬より手間がかかる」だった。僕より17歳も年下の彼の妹と同じなのかと思うと笑えたし、何よりその口調がとても優しくて本当に弟になったみたいで嬉しかった。この場合は僕が弟なのかと思うと更に笑えた。 そんな生活が何ヶ月か続いた。 * * * 「この頃顔色が良くなったね」 「え、そうですか?」 いつものごとく家に送られてる最中に理一さんに言われた。 「自分じゃわからないんですけど・・・」 「体重も戻ったみたいだし」 「あ、それは分ります。服がワンサイズ小さかったんですけど元に戻りましたから」 「すごく痩せちゃってたからね、戻って良かったよ」 「・・・ありがとうございます。これも理一さんたちのお陰です」 研究室に泊りこむようになって5sほど痩せた。あまり自分では気にしてなかったが、もともと痩せ気味の自分はえらくガリガリに見えて周囲に心配をかけたらしい。自分じゃズボンがゆるくなって困ったなくらいにしか考えていなかった。 「俺がしたのは強制帰宅だけだからお陰ってほどでもないよ」 「でも言われるまで全然気づきませんでしたから・・・」 今でこそ週に二回は帰るようになったが理一さんに言われるまで二週間まるごと帰らなかったこともあった。ネット世界を相手にしているせいで研究所が年中無休で曜日感覚が麻痺していたのもあるが、二週間まるごととは我ながら酷すぎたと思う。二週間ぶりに帰ったときの冷蔵庫の惨状と洗濯物の臭いは思い出したくもない。 「でもそれもそろそろお役ごめんかな」 「え」 「はい、着いた」 そう言って車が止まった先は僕のマンションではなくて・・・ 「佳主馬くんのマンション?」 「そう、今日はこっち」 「え?今日なんかありましたっけ??」 「行ってからのお楽しみ」 理一さんはそう言ってさっさとエントランスに入ってロックを解除しエレベーターに向かってしまった。 佳主馬くんは大学進学と同時に上京してうちの近くにマンションを購入した。大学生でマンション持ちなんてさすがキングだと思ったものだ。しかも購入したマンションは家族向けのファミリータイプの3LDK。一人暮らしには広すぎる。そう言ったら「いつか結婚するだろうから最初からファミリー向けのがいいよ。一室を事務所にするから経費で落とすしね」と言われてしまった。 エレベーターが付いたのは最上階、佳主馬くんの住む部屋はその奥にあった。部屋のインターホンを押すとすぐ佳主馬くんが出てロックを解除してくれた。 「お帰り」 「・・・ただいま」 佳主馬くんが出迎えてくれた。 自分の家じゃないけど「お帰り」と言われると嬉しくて、つい「ただいま」と言ってしまう。 「理一さんもお疲れさま」 「佳主馬こそお疲れさん。何か手伝うことある?」 「ない。業者に頼んだからもう全部終ってる」 「そう、じゃあもう帰るから」 「うん、またね」 「ああ、じゃ、健二くんまた来週ね」 「はい、お疲れ様でした」 何年経っても変わらず渋い理一さんは意味ありげにニヤリと笑って帰っていった。 そして訳の分らない僕だけが残された。 「えと、佳主馬くん、今日なんか約束してたっ・・け?」 何故自分はこの部屋へ送られたのだろう。計算に夢中で時間を忘れて待ち合わせや約束に遅れるのはしょうっちゅうだが約束自体を忘れたことはなかった、はず。 自分は何か約束を忘れてしまったのだろうか? 「してないよ。僕が理一さんにお願いしてこっちに送ってもらっただけ」 とりあえず危惧していた約束破りはなかったようでホッとする。では何故?? 「見せたいものがあるんだ。来て」 そう言って連れてこられたのは客室。3LDKなので寝室と仕事場で使ってる二部屋の他にもう一部屋余っていた。陣内家の皆さんとここで集まったときにこの部屋に泊めてもらったこともある。でもここには確か何もなかったはず。でも今はベッドや机やパソコンがあり、すごく生活感のがある空間に変わっていた。 「模様替えして家具入れたんだね。誰か住むの?」 「家具見て気付かない?」 え、家具?えーとそう言えば・・・ 「なんかうちのと似てる気がするけど・・・」 「だって健二さんとこの家具だもん」 「ええええッ」 「しかも家具だけじゃないよ。クローゼットの中も全部健二さんのになってるから」 「い、いつの間にッ」 「健二さんが出かけてる間に引越業者に頼んで運んでもらった」 さっき理一さんと会話していたのはこのことだったのか・・・。佳主馬くんには合鍵を渡してるのでできないこともない。 「でもどうして・・・」 「今日からここが健二さんの部屋だから」 「え・・・」 「健二さんて放っておくと何日も研究室に泊り込んで家に帰ろうとしないでしょ。帰らないからちゃんと寝ないし、服も着替えないし、ちゃんと風呂にも入らないし、ちゃんとしたごはんも食べない。強制的に帰らせても一人だとろくに食事も家事もしない。翌朝早く出勤するだけ。当然部屋は荒れるし健二さんもくたびれる。今は大分マシになったけど一時はひどい顔色してたよね」 「その、お世話をかけました・・・」 改めて言われると本当にろくでもない生活をしていたものだ。理一さんが佐久間が佳主馬くんがいなければもっと酷い生活をしていただろう。 「最初は離婚のショックでちょっとおかしくなってるんだと思ってた」 「・・・そう思うのが当然だと思うよ」 実際ちょっと変だとは自分でも思っていた。 「でも仕事はちゃんとしてるらしいし、家に僕や他の人がいるときは自分でお風呂に入るし、着替えるし、歯も磨くし、ちゃんとごはんも食べる。結構普通なんだよね」 「そう、だった、かな…?」自分じゃよくわからない。 「だから健二さんはおかしくなって無気力になってるというより、単に家に帰りたくないだけだったんじゃない?」 「・・・・・うん」 「それも、僕たちがいるときは普通なんだから、一人で家にいるのが駄目なんだ」 「・・・・・・・・」 「家に帰って一人になるのが嫌なんでしょ、だから帰らなかったんだ」 「・・・・・うん」 佳主馬くんの言う通りだ。 あの一人には広いマンションに一人で帰り 夏希さんと過ごした記憶のある部屋で 夏希さんを一人で過ごさせてしまったあの部屋で 一人で家事をし、一人でごはんを食べて、一人で過ごすのがたまらなく嫌だった。 かつて二人で過ごした空間に一人でいることの寂寥感 かつて自分も味わった一人でいることを味あわせてしまった罪悪感 それらの感情がいりまじり、一人で部屋にいるのがどうしようもなく苦痛だった。 できるだけ家で過ごしたくなかった。家に帰りたくなかった。 だから目の前にある数字に没頭して、帰ること自体を忘れようとした。 「僕たちがお節介してちょっとはマシになったけど、しなくなったら元に戻る。それじゃ駄目」 「そうだよ、ね・・」 「僕も忙しい時は頻繁に通えないからさ、早くなんとかして欲しいわけ」 「う、うん、ごめんね?」 いくら近いとはいえしょっちゅう来てくれて悪いと思っていた。でも「もう来なくていいよ」とは言わなかった。言っても「だったらちゃんとして!」と怒られるだけだろうし、来てくれるのが嬉しかったから言えなかったのだ。 「だからさ、一緒に住もう?」 「え・・・」 「一人になるのが嫌なら僕がいるここに帰ってくればいい」 「佳主馬くん・・・」 「健二さんに新しい家族が出来るまでここで一緒に暮らそうよ」 「・・・・」 「それまで、僕が家族になってあげる」 「・・・ッ!?」 佳主馬くんが「もともと栄婆ちゃんに認められてから家族も同然だったんだけれどね」と照れ臭そうに笑って言った。 ・・・・・・・・・言葉が出なかった。 「合鍵持ってくるから」 何も答えない自分を置いて佳主馬くんが部屋を出て行った。 人は本当に欲しいものを差し出されると、戸惑いすぐに受け取ることが出来ないのかもしれない。 すぐに返事が出来なかった。 戻ったらちゃんと返事をしなければ。 心配してくれてありがとう そばにいてくれてありがとう 一緒に暮らそうと言ってくれてありがとう 家族になると言ってくれてありがとう 【自分の家族】 それは僕が失い、いま何よりも欲しかったものだ。 「はい、健二さん合鍵・・・ッ!?」 佳主馬くんの鍵を差し出そうとしてた手が止まる。 逆に反対の手が自分に伸びてきて、頬を撫でられた。 ああ、返事をしなければ ありがとうと言わなければ 「ぅ・・っく、カズ、マく・・」 『佳主馬くん、ありがとう』そう言いたいのに声が出ない。 蛙のようにひきつれた声と息がもれるばかり。 「・・・あ、ありが・・・・」 「・・・もうしゃべんなくていいから」 頭を引き寄せられ、そのまま抱きしめられた。 佳主馬くんのシャツがみるみると濡れていく・・・ ああ、自分は泣いているのだ。 気づいたら更に泣けてきて そのまま、佳主馬くんの胸で号泣した。 夏希さんと別れてから初めて流した涙だった・・・ |
NEXT 2009.10.22 |
× 展示目次へ戻る × |