僕は約束を守れませんでした。


「お願いがあるの」

 僕は夏希さんのこの言葉に弱かった。
 最初にバイトに誘われたときも、その後も、内容は聞かなくてもつい「いいですよ」と答えてしまいそうになる。時際にお願いの内容を聞いてもすぐに「いいですよ」もしくは「いいよ」と答えていた。

 でも今回のお願いの内容にはすぐには返事が出来なかった。
 夏希さんのお願いが

「私と離婚してほしいの」

 だったからだ。
 すぐには頷けなかったけれど、その一ヵ月後には彼女の願いを受け入れて離婚届に判を押した。そして彼女は出て行った。

 あの夏の日、最期にした約束を果たせなかったのが心残りだった。
 それを話したら「ううん、健二くんはちゃんと約束を守ってたよ。私はとても大事にされてたし幸せだった。ただ、私が私自身の手で幸せにしたい人が出来ちゃっただけ」そう言って笑った。
 その笑顔は”健二くんは悪くない”と言っているようで胸が痛かった。


 * * *


 離婚したことを母さんに報告すると

「・・・あんたは私に似ちゃったのよね。人ってね、家庭に向いてる人と向かない人がいるの。私は仕事に夢中になるタイプで家庭には全く向いてなかった。結局あの人とも別れちゃったしね。それでもあんたという家族がいるのは、私が女で運良く母になることが出来たから。運が良かっただけ」

「あんたは運が悪かっただけよ。いつか運良く家族になってくれる人が出来るのを待ちなさい」

 そんなふうに慰められた。

 今僕が勤めるMG機関はOZ事件後に発足された国によるネット犯罪対策の専門機関だ。目に見えないネットの世界をAIを利用して巡回・監視させ犯罪を未然に防ぐのが目的だ。特にサイバーテロが専門。
 僕はそこの暗号解読の研究室に所属している。MG機関発足に関わった理一さんに「うちに勤めれば、一番難しくて、一番新しい暗号や数学の問題が見放題だよ?」と誘われたからだ。
 ネットの中は数字の暗号で満ち溢れている。常にどこかで誰かが新しい暗号を作っていることだろう。そしてその最前線にいるこの職場は常に心惹かれる数字に溢れていた。
 僕はこの仕事に夢中になった。
 出来て間もない機関だったので人手不足だったし、覚えなきゃならなっことも、解決しなきゃならないことも山積みだった。しかも事件が起きた時は泊り込むこともある。今は落ち着いてきたけれど僕が入ってから数ヵ月後〜一年間は一週間丸ごと研究室へ泊り込むことも多かった。それでも毎日充実していたので忙しいことは気にならなかった。

 でも、それが問題だった。
 だって家には夏希さんが一人で待っていたのだから・・・。

 僕たちは大学を卒業した春休みに結婚式を上げた。
 あの日は陣内家の皆さんに祝福されとても幸せな一日だった。
 最初の頃は普通の新婚さんのように過ごせた。家に帰ると夏希さんがいて、ご飯を一緒に食べて、片づけを手伝ったり、他愛のない会話をして過ごした。休みの日には一緒に買い物に行ってご飯を作る手伝いもした。
 けど僕の仕事が忙しくなり始めると互いに仕事があるのですれ違い始めた。
 まずは夕ご飯を一緒に食べなくなり、次に朝しか顔を合わせなくなり、そして週末だけしか話せなくなった。さらに二週間まるまる会えないこともあった。そういう時は事件があった時だったので夏希さんにメールや電話もろくに出来なかった。
 大抵のことはちょっと怒って許してくれる夏希さんだったが、一度だけ一週間以上会えなくてろくに連絡も出来なかったときに「連絡くらい頂戴!心配したんだから!」と泣かれたことがあった。そんなときは心配かけて悪かったと思う反面、夏希さんが家にいて出迎えてくれたことに安堵して、やっと帰れたことが嬉しくて夏希さんが泣いた訳を深く考えずにいた。会えたからいいんじゃないかとそれで終わった気になっていた。似たようなことが何回かあった。
 彼女は大人しく一人家で待っているタイプではない。自分で行動して運を切り開くタイプだ。僕が不在がちなのはさぞ寂しかったし不満だっただろう。けれどこのことで大きな諍いはなかった。それは僕がこの状態を特に不満に思ってないのが分ったからだろう。大好きな数学に囲まれた職場に家に帰れば大好きな夏希さんがいる。僕は満足していた。そんな僕に彼女は不満を言い出せずにいたのかもしれない。
 夏希さんは自分が悪いのだと言っていたけれど、これじゃ愛想をつかされて当然だ。
 もっと忙しくない仕事を選べば違ったかもしれない。例えば大学に残って研究を続ければ良かったかもしれない。
 でもOZ事件後は僕の周囲は何かと騒がしかったので迷惑をかけたくなかった。この仕事に決まった時には母さんも陣内家の人々も安心してくれたのでこれで一番良かったのだと思う。
 何よりも自分の数学にのめりこむ性分が変わらなければどんな職場でも結果は同じような気がする。

 こうしてれば、ああしていれば、あの人がいなければ

 考えられる可能性は行く通りもありちょっとした差で別れずに済んだかもしれない。でもそもそもがあの人がいなければOZ事件は起きず、夏希さんと結婚することもなかったはずだ。

 多分、どこかで別れずに済む選択肢もあったはずだ。なのに、自分はそれに気づかなかったのだ。
 たった10桁の暗号も一つの数字を見落とせば全てがずれて間違った答えにしか辿りつけない。
 今回は2056桁レベルの暗号で、僕はうかつにも何かを見落としたのだ。
 そしてそれが僕にとって悪いほう悪いほうへ転び”離婚”という答えに辿りついてしまったのだ。

 
 僕はうっかりで、運が悪かった。

 そう思うことにした。


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2009.10.20
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