香る家 -08- 
ピチュピチュ、
(鳥の鳴き声がする・・・)
 朝から元気に鳴いている鳥の声で意識が覚醒した。目を開けると室内は随分と明るくなっている。今日は金曜日、旦那様が帰ってくる日。いつまでも寝ていられない。勢いを付けてベッドから起き出した。
(ん?旦那様・・・?)
 麻衣は違和感を覚えたが体は勝手に動いていく。窓辺に寄ってカーテンを開けた。窓の外には初夏の緑が広がり、朝日が眩しかった。
 手元にある鈴を降って音を鳴らす。軽やかな音が広かってすぐに扉が開きメイドさんがやってきた。
「おはようございます、奥様」
「おはよう」
(お、奥様!?)
 聞きなれない呼び方に、自分が夢を見ているのだと理解する。着たことのないネグリジェを脱ぎ、メイドさんの手を借りて身支度を始めた。コルセットを閉められた時は身が口からはみ出るかと思った。
(昔の女の人は大変だよなぁ)
 慣れたもので、夢だと分かったら良くできた映画を観るように楽しめる。出来ればこの先は鳥肌もののホラーにならないことを願うのみだ。身支度が進み、女性は鏡台に座って化粧を始めた。
(わ、キレイな人・・・)
 鏡に映った女性は大きな青い瞳が印象的な白人女性だった。三十代頃だろうか、少し豊満な体を青いドレスに包んでいる。豊かな胸元は見事にもりあがり、年相応の落ち着いた色気を醸し出していた。化粧を終えた女性は立ち上がり、角度を変えて全体の姿をチェックしはじめた。
(なんか、いいなぁ・・・)
 彼女は終始笑顔でとても楽しそうだ。帰ってくる夫を出迎えるための装いを本当に楽しそうにしている。その妻としての喜びの笑顔が眩しく、少し羨ましかった。
 彼女は入念なチェックを終えて鏡の前を離れた。そして壁にある作り付けの戸棚を開き、何かを取り出した。そこは大事なものを入れる場所なのだろう、取り出した箱には高価そうなダイヤや真珠のネックレスやピアスが見えた。その中の一つを身に付け、再度鏡でチェックする。完璧なのだろう、満面の笑顔で頷いた。そして箱の中から小さな小瓶を取り出した。
(香水瓶だ・・・)
 百合だろうか、ほっそりした優美な花のレリーフが美しいガラスの小瓶だった。
 一滴だけ指にとり、耳、胸元、手首にすりこんでいく。ふわりと甘い香りが鼻をくすぐった。
(彼女が身に着けていた香りだったんだ・・・)
 それもとって置きの香水だったのだろう。旦那さんが帰ってきた時かもしれない。彼女は大事そうに箱に仕舞った。
 ふとガラガラと車輪が大地を蹴る音が聞こえて窓を見ると、黒い馬車が見えた。
 彼女は大喜びで部屋に飛びだして、はしたなくない程度に階下を駆け降りた。
 そして玄関を開けて旦那さんを出迎えた。
 逆光になってて旦那さんの顔までは見えない。でも微笑んだ気配がして抱きしめられた・・・。

「麻衣」

 聞きなれた声、でも珍しく優しいニュアンスで呼ばれた。久しぶりに聞くその声に、胸を高鳴らせて振り向くと、暗闇の中に予想通りの人が立っていた。
「ジーン!」 
 ナルの双子の兄、ジーンが笑って佇んでいた。
 その姿はナルと寸分違わない。なのにナルとは全然違う、優しく見とれるような奇麗な笑みを浮かべていた。
 その笑顔を近くで見たくて彼に駆け寄ろうと麻衣はジーンに向かって一歩足を踏み出した。
 するといつの間にか洋館が消えて暗闇に変わる。でも怖くは無い。私の前にはジーンがいる。ジーンさえいればいい。
 腕を広げて待っているジーンの胸に向かって思いっきり飛び込んだ。
「久しぶり、麻衣」
 ジーンは私を受け止めて軽く抱きしめて頭を撫でてくれた。くすくすと笑いながらするその仕草はとても優しい。香水の彼女が旦那さんにされたような抱擁ではない、兄が妹にするような軽いハグだ。少し残念だけど優しい仕草にいつも泣きたくなる。だって何の感触も無いのだ。触れている実感は有るのに、肌同士が触れる感触も体温もない。この空間が現実ではないと実感する瞬間だった。それでも私はこの逢瀬が嬉しくてジーンの手を離せなかった。
「ここイギリスだよね?目覚めたら驚いたよ。SPRに呼ばれたの?それともナルが帰国して麻衣もこっちに就職したとか?」
 ジーンは嬉しそうに話しかけてくれたのに、胸が詰まって何も言えなかった。言葉じゃない、違う何かが溢れてきてどうしようもなかった。
「ジーン・・・」
 やっと名前を言えたと思ったら、堪え切れなくなってぼたりと涙が零れた。
「ちょ、どうしたの!麻衣???」
 ぼたぼたと大粒の涙を零し始める麻衣にジーンは慌てた。ナルと違って素直に驚く顔は少し幼く見えて可愛い。
「ナルったら酷いんだよ!」
 ジーンの顔を見たら安心して、何故か愚痴を零さずにはいられなかった。

 * * *

 私はナルと恋人の振りを始めた事からここに来るまでを簡単に説明して、一昨日の出来事をジーンに告げ口していた。ここが現実じゃない異空間でも構うことはない。
 私の話を聞いたジーンはまどかさんとほぼ同じ反応だった。最初は「嘘でもナルが恋人を作るなんて!」と喜んでいたのに、一昨日の出来事を話したら頭を抱えてナルを罵った。ナルと同じ顔してナルを罵るんだからなんか変な感じだ。
「愚弟がごめんね・・・」
「酷いよね!!恋人の振りくらいならいいけど偽装結婚だよ?そんなの出来っこないじゃんか!全く人の事何だと思ってるのかな!どんだけ人を馬鹿にしてるのよ!」
「うん、とんでもないよね・・・」
「結婚って言ったら女の子にとっては一大事だよ?子供のことだって・・・。なのにあんな風に言われてショック受けない子がいたらお眼にかかりたいよ!」
「いや、ホント、ごめん・・・」
「ジーンが謝る事ない!悪いのはデリカシーの欠片もないナル!」
「そうなんだけど、デリカシーが理解出来ないナルが謝るとは思えないからつい・・・」
「・・・まぁね、私が怒った理由も分かってないっぽいよ、ヤツは」
「だよねー・・・」
 二人で溜息をついてしまう。
「でも・・・麻衣が妹になったら嬉しいのにな」
 ジーンが優しく酷いことを言った。
「・・・私はナルのお姉さんになりたかったな」
 不貞腐れて正直に返すと、ジーンは少し驚いた顔を見せた。そしてはんなりと笑った。
「それも良かったのにね」
そう呟いてくれた。泣きそうになるくらい嬉しくて、同時に悲しい。どちらつかずの感情が胸を締め付ける。
 私の気持ちをちゃんと伝えた事はない。でも人の心に聡い人だからとっくの昔に気づかれていると思う。
 お互い知らない振りをしている訳ではない。ただ、言ってもどうしようもないからあえて言わないだけ。
大事なのはこうしてまた会えて、話せること。この瞬間を大事にすること。そう思っている。多分、ジーンも同じだと思う。
「ねぇ、ナルに仕返ししたい?」
 ジーンが少し人の悪い顔をして聞いてきた。
「え?出来るの?」
「うん、ナルの苦手な事を教えて上げる」
「ホント?教えて教えて!」
「ナルはキスが弱点なんだ。キスされると硬直されるくらい苦手だから、嫌がらせに思いっきりキスしてやればいいよ!」
 自信満々に言いきるジーンには悪いのだけど、そんな弱点はあまり弱点とは言わない気がする。
「・・・・・・・・・日本人の私もキスは苦手なんですが」
「あ、そっか。じゃ駄目?」
「うーん・・・ほっぺくらいならいい、かな?恥ずかしいケド」
「日本人はシャイだよねー」
「奥ゆかしいと言って欲しいな」
「じゃ、練習」
「へ?」
 見上げると、恐ろしいくらいの美貌がすぐ目の前にあって、驚く間もなく唇に触れ、ちゅっ、と音を立てて離れて行った。感触は無いのに濡れた気がしたのは自分の経験からくる補正だろうか。何をされたのか理解した途端、顔が熱くて仕方なかった。
「わー、真っ赤♪」
「ちょちょちょちょ」
「蝶蝶?」
「ジーン!」
「練習兼お返し?」
「へ?」
「夢うつつの中、キスされた気がしたんだよね。あれって麻衣でしょ?」
「あ、あれは・・・・・・・・・」
「お姫様のキスでも目覚めない駄目王子でごめんね?」
 顔どころか体中が熱くて仕方ない。
「ジーンの馬鹿!!!!!」
 もうこの兄妹最悪だ!ポカポカとジーンの胸を叩くと、ジーンは「痛い痛い」と言いながらまだ笑っている。
絶対嘘だ!笑うの止めるまで叩くの止めてやんない!
 ひとしきりじゃれ合った後、ジーンが「近いな」と呟いた。
「近い?」
「うん。墓とナルと麻衣の距離が近いせいかな、麻衣との距離が近く感じる。そのせいかこの場が安定してる」
「そういえば・・・」
 いつもならこんなじゃれ合うほど時間的余裕は無い。
「だからといってずっとこうしてるわけにはいかないね。麻衣に負担がかかるから」
「うん・・・」
「この家の話をしようか」
 ジーンはいつもの笑みで優しい時間の終わりを告げた。

 * * *

 ぱかり、と目が覚めた。
「夢か・・・」
 ついさっきまでジーンと話していた。とても夢とは思えないほど鮮明な記憶がある。いつも思うけどあの空間は一体何なのだろう。夢だけど夢で片づけられない現実感。まだ手にジーンを叩いた感覚が残っている。でも夢には違いない。これは私にしか分からない感覚だろう。
 室内はまだ暗く、隣のまどかさんはまだ寝ていた。時計を見ると夜明けまではもう少しといった時間だった。
この夢を見ると頭が冴えてしまう。少し早いが起きることにした。
「・・・えいっ」
 勢いをつけてベッドから身を起こした。

 着替えを済ませてベースに向かうと、ドアから明かりが漏れていた。ドアを開けるとやっぱりナルがいた。こちらをチラリと見て少し驚いた顔をした。その顔にはもう湿布が無いことに少し安心する。
「おはようございまーす」
「・・・おはよう」
「お茶淹れるけど飲む?」
「ああ」
 キッチンでお湯を沸かして紅茶を淹れる。今は少し濃いめのストレートが飲みたい気分なのでダージリンを淹れてみた。ナルの好みでもあるのが少々悔しい。お盆に載せて持って行くとナルはいつも通り無言で受け取る。
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
 暖かな紅茶を飲みながら、湯気に隠れてナルの横顔を見る。その頬にはバッチリついていた手形はもうない。でも叩いた時に偶然かすったらしく、爪のあとが一本うっすらと残っていた。
(私ってばよくこの奇麗な顔を思いっきりぶったたけたよなぁ~)
 我ながら感心してしまう。
それと同時に後悔もしている。やはり暴力はよくない。
(でも素直に謝るのも悔しいんだよね)
 一昨日のアレは八つ当たりも混ざっていた。イギリスに来てから色々あって溜ってたものが一気に噴き出した気がする。普段ならナルを散々叱ることも出来たかもしれない。
今はジーンに愚痴ったことで胸に残っていたしこりはキレイに溶けていた。所詮はナルだ。乙女心を察知するスキルは小学生以下なのだ。悪気はないのだしこちらが寛大になって許してやるしかない。
出来ればお互い謝ってチャラにしたい。でもその切欠がつかめず無言の時間が流れる。
「・・・何か反応出た?」
「いや」
「そっかー・・・」
 苦し紛れに調査の話を振るが、やっぱり予想通りの答えで会話が続かない。
湯気を吹くふりをして溜息がもれた。

「・・・悪かった」

「ふぇ?」
 信じられない言葉に驚いて横を見ると、紅茶に視線を落とすナルの横顔が見えた。
「一昨日はデリカシーに欠けた発言だった。すまない」
(・・・あのナルがデリカシーだと?)
【Delicacy:感情、心配りなどの繊細さ。微妙さ】
 似合わない単語に麻衣はぽかんと口を開けてしまった。
「ホントにナル?ジーン入ってない?」
「は?」
「だってナルがデリカシーなんて言うんだもん。ニセモノかと思っちゃったよ」
「どういう認識だ」
「博士の辞書にdelicacyなんて単語が載ってるとは思わなかったもので」
「・・・・・・・・・」
 自覚があるので反論はしにくい。
「・・・もしかしてリンさんとアレクさんに何か言われた?」
 そう言うとナルはそっぽを向いてしまった。これは図星だな。でもナルは人に注意されても自分が納得しないと謝りはしない。ナルなりにあの発言を反省したのだろう。
(ずっこいよなぁ・・・)
 仕事中毒の博士様でデリカシー皆無なくせに、一旦悪いと思ったら潔く謝る。彼氏や恋人には向かないけれど、人としては感心してしまう。一言謝られただけでマイナスから一気にプラスに転じるのだからずっこいと思う。
「あれはとんでもない発言だったぞ」
「・・・悪かった」
「もういいよ。他意は無いって分かってるから」
「・・・・・・」
 そう言うと、ナルはちらりとこちらを見て小さくため息をついた。
「・・・私こそ叩いてごめんなさい」
「別にいい」
「痛かった?」
「それなりに」
「まだちょっと痕残ってるね・・・」
 そっと触れようとしたら嫌がって顔をそらされた。
「まだ痛い?」
「いや、だが触られるとヒリつく」
「もしかして叩かれたの初めて?」
「女からはないな」
「ほほう、それはそれは貴重な初体験したね」
「礼を言えとでも?」
 その不本位そうな言い方が可笑しくって笑ってしまった。そしたら「笑うな」と額を叩かれた。何だか夢と逆だなと思うと更に笑えてた。
「あ、ジーンに会ったよ」
「だから機嫌がいいのか」
「バレバレ?」
「ああ」
「なんかね、私がイギリスにいるせいか距離が違いんだって。いつもよりたくさん話せたんだよ」
「近い?」
「うん、いつもより安定した場ができてた。ジーンのお墓に近い場所にいるせいかもって言ってた」
「そうか・・・」
ジーンの遺体を見つけた日、麻衣は夢ではなく起きた状態でジーンと接触していた。やはり本体が傍にあるほうが接触は持ちやすいのだろう。
「ねぇ、イギリスでなら三人一緒に夢で逢えるかな?」
「さあ」
「逢いたい?」
「別にいい」
「・・・ホントにそう思ってるとこがナルだよね」
「当たり前だ。ジーンはもう死んでいる」
「・・・うん」
ナルは正しい。本当は逢いたいと思うほうがいけない。でも私のように逢えるなら逢いたいと望んでしまうのは仕方ないと思う。私は自然と逢えなくなるまでは逢いたいと思う自分を許している。
ナルもジーンと逢うなと私を攻めたりしない。どちらも自然に別れるまで待ってるような気がする。
(ナルは何でもそのまま受け入れるんだよね・・・)
 悪いことでも良いことでも、彼は淡々と全てを受け入れる。
多分、ジーンの死もそうして受け入れたのだろう。
それは悪いことじゃない。でもナルは顔に出さないけど何も感じてないわけじゃない。そう思うとやるせなくなる。感傷的な気分になってしまうのはこっちの勝手だ。分かってるけど溜息がでてしまう・・・。
話題を変えたくて、違う話題をだした。
「そだ、家の夢も見たよ」
「何故それを先に言わない」
 怖い顔をして睨まれてしまった。こちらの微妙な思いを一切無視して「お前はすぐ忘れるのだから無駄話をする前に報告しろ」とお小言まで言う始末。
(ヤツが『デリカシー』を本当に覚える日は遠いねッ!)
 麻衣はむくれながら夢の内容を報告した。


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2011.11.2 オフ本より掲載
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