香る家 -00- 
 歓迎会の翌週は月曜から調査だった。
 朝からミーティングと機材の積み込みを行うため、早めに集合した面々は、ナルを見て驚きの声で迎えた。
「あらあら・・・・・・」
「どうしたんだ?、ソレ」
「・・・・・・・・・・・・」
 リンのみ無言だったが表情に乏しい彼にしては珍しく目を見開いていた。
 彼らが驚いたのはナルの顔だ。
 ナルの頬には長方形の湿布がぺたりと貼られていた。元が美形なだけにすごく目立つし、笑えるものがある。
「どうしたの?」
「虫歯とか?それとも親知らずか??」
 まどかとアレクが問いかけると、ナルは「なんでもない」と素っ気なく答えるのみ。その後は完全無視だ。
「ナルが怪我なんてらしくないわね」
「麻衣、アレどうしたんだ?」
ナルは口を割りそうにないので一緒に来た麻衣に視線を送ると、麻衣は曖昧に笑って誤魔化された。その顔には「言いたくない」とかかれている。てっきり面白おかしくナルのドジ話でも聞けるかと思った面々は麻衣の様子を訝しんだ。

「無駄話はいい、ミーティングを始めるぞ」
 尖った声でナルが宣言した。
 リン、まどか、麻衣、そしてアレクが頷いて返事する。
 まどかの方が上司だが、彼女がずっと現場にいるわけにはいかないし、後方支援担当なので、調査の現場指揮はナルがとることになっていた。

 今回の現場はケンブリッジより少し郊外にある古い屋敷だ。築100年以上のレンガ建築で、昔の貴族の別荘地だったらしい。
 この屋敷では昔から、ある『ニオイ』がするそうだ。
 不快なニオイではなく、少し甘い香水のような香りが、皆が集まって談笑している時や、誰もいない部屋に、突然香るらしい。
強い香りではなく、香水を付けた女性が通り過ぎたあとのように、気づいた瞬間にはもう霧散してるようなささやかな香りだそうだ。不思議ではあったが、どこかの香りが流れてきたのだろうと、気にせず過ごしていると、ある日香水に詳しい人が『これは麝香の香りだね』と指摘したそうだ。
 麝香とはジャコウジカの腹部の香嚢を切り取って乾燥したものだ。香水の香りを長く持続させる効果があるため、香水の素材として珍重されたらしい。しかし一頭から50グラムほどしか採取できないため、昔はジャコウジカの乱獲が行われて絶滅の危機に瀕したことがあった。今は商業目的の国際取引は原則として禁止され、殺さずに採取する技術が出来た。だがそれはとても貴重なため、今は合成ムスクが一般的でほとんど使われないらしい。
 そんな希少価値の本物の麝香の香りがする香水など誰も付けてはいない。
 ならこれはこの屋敷に住む幽霊の香りだろうと結論付け、皆で喜んだそうな。これで納得してしまうんだから英国人の幽霊好きは筋金入りだ。
 喜んでいたはずなのに、何故SPRに依頼が来たのか?
 それは別の問題が起きたからだ。
 屋敷はベンジャミン氏とその奥方が春から秋にかけて住んでいる。ベンジャミン氏が引退場所としてこの屋敷を購入し、10年ほど前から住んでいるらしい。普段は二人だけだが夏季休暇に息子夫婦と二人の孫が遊びに来るそうだ。
 問題が起きたのはこの孫達だった。ロンドン子の孫たちはアレルギー性鼻炎を抱えていた。そのアレルギーがこの屋敷に遊びにきて酷くなったそうだ。どうも麝香の臭いに反応しているらしい。昔は大丈夫だったのに、今年から反応するようになったそうだ。子供たちは昔に比べれば香りが強くなった気がするという。
 いくら幽霊好きでも孫の健康には変えられない。老夫婦は、これ以上悪い変化が起きる前に調べて欲しいと依頼してきたそうだ。
 地味な現象だが定期的に昔から起きているので信憑性が高い。また、幽霊とニオイに関するデータが採取できる可能性が高い。これらのことからナルが興味を持ち、担当することになった。
 依頼自体は7月に受けていたが、急ぎの依頼ではないので、ナルの帰国に合わせて調査に入ることにした。

「今回は常に携帯用の臭気測定器を持つ事。自分の感覚だけを信じるな、常に測定器でも確認しろ。少しでも通常値より高ければすぐサンプルを採取し、分析する」
 携帯用の臭気測定器は電卓くらいのサイズで電池で動く持ち運び可能なタイプだ。手元で臭気の強さが表示される。ナルが言う新型とは最近導入した臭気成分分析機のこと。専用の容器に空気を採取し機械にセッティングすると、臭い物質を詳細に分析し、その成分を特定してくれるらしい。今回問題となる麝香の臭いも登録されている。
 今回はサンプル採取が忙しい調査となりそうだった。

「まどか、例の物は用意できたか?」
「ええ、持ってきたわ」
 まどかは鞄から小さな小瓶を取り出した。それは親指ほどの大きさに花のレリーフで飾られた大変愛らしい香水ビンだった。小瓶を見た麻衣が「わ、可愛い」と声を弾ませた。
「香水ですか?」
「そう、本物の麝香のよ」
「へぇ、これが・・・」
 まだ学生の麻衣には香水は敷居が高い。興味はあれどろくに見た事すらなかった。たまーに綾子の部屋でつけさせてもらうくらいだった。
「先に本物のニオイを嗅いでおけば、現象が起きたらすぐ気付きやすいからな」
 アレクが言うとナルは「そういうことだ」と同意した。
「皆がニオイを覚えておくように」
 まどかが香水を少量付けた細長い紙を皆に渡した。
 麻衣は受け取った紙を鼻に近付け、息を吸い込む。鼻腔に広がる香水の香りを楽しんだ。
「へぇ・・・不思議な感じ・・・」
 すこし甘くけぶるような、粉っぽいような香りはノスタルジイを感じさせるような芳しさだ。
「うふふ~、大人な香りよね」
「まさにそんな感じ!大人の女性が付けたら素敵だろうなーって思いました」
「麻衣ちゃんにはちょっと早いわね。つけたら滝川さんが泣いちゃうかも」
「へ?泣く・・・?」
 いつまでも子供扱いしたいから大人の女性になったら困るということかな?でも泣くまではしないだろうと不思議に思うと、まどかさんはうふふ笑い、アレクさんはニヤニヤ笑い、リンさんは困ったような顔をしていた。
「麝香=ムスクは麝香鹿の雄の生殖腺から採取したもので、この分泌物は雌の鹿を引き寄せる力を持つフェロモンって言われてるの。かのポンパドゥール夫人も愛用してて、ルイ15世を虜にするのに使ったとも言われてるくらい。言わば、異性を虜にする媚薬の香りってとこかしら」
「ムスクって言ったら男が女性にアピールする時にも使うと有名だぞ。俺の友達はデート用パヒュームって言ってたな」
「麝香は興奮剤、強精剤、催淫薬などの薬にも使用されるくらいですから」
「え、あ、そうなん・・・だ・・・(赤面)」
 そんな『大人』な意味で有名なんて知らなかった。そりゃ私が付けたらぼーさんが泣いちゃうかもしれない・・・。
「といっても、これを人工的に作った合成ムスクは香りを保つのに有効だから、石鹸とか身近なところにも使われてるの。必ずしも特別な意味の香りってだけじゃないのよ」
「それでかな?どっかで嗅いだことあるなーって思いました。石鹸の香りだったのかも」
「それは俺も思った」
 石鹸の香りと聞いて麻衣とアレクは納得した顔をした。そしてナルも顔には出さずとも納得していた。
(なるほどな・・・)
 皆が話している中、ナルは一人黙って香りの記憶を探りながら会話を聞いていた。
 この香りは社交場でよく嗅いだことがある。着飾った女性がよく匂わせていた。欧米人は体臭が濃い。それに加えて香水を付けるのだから、正直『クサイ』と感じる程だ。あのニオイをさせた女性に密着されると吐き気すらもよおす。自分にとっては官能などとは程遠い香りだった。
(単品ならそう悪い香りじゃないな)
 体臭と混ざらない麝香の香りはどこか覚えるのある香りだった。不愉快ではない、この香りの記憶は石鹸のものかと納得した。
「それぐらいでいいだろう、準備するぞ」
 まだ香り談義で盛り上がる連中に仕事をさせるべく声をかけて、ミーティングを締めくくった。

 このメンバーでの調査は久しぶりだ。それぞれが慣れた仕草で滞りなく準備を進めていく。アレクは久しぶりの調査だが基本は身に染み付いていて問題ない。麻衣もこの一週間で研究室に大分慣れた。何も問題は無いように見えた。

「博士、これはどうしましょう?」

 不意に、聞きなれぬ言葉で呼ばれた。
 いや、「博士」と呼ばれることには慣れている。だがこのメンバーで自分を「博士」と呼ぶ者は誰もいない。だから反応が遅れた。
 振り向くと機材を抱えた麻衣だった。いつもなら積む機材だ。古い家屋の傾きなどを調べるのに使うが、今回は要らないだろう。だが何事も用心は必要だ。
「・・・念のため積んでおけ」
「はい」
 当然の疑問に当然の態度で答えたが、周囲の反応は違っていた。
「麻衣ちゃんどうしたの?『博士』だなんて他人行儀な」
「元々他人だが」
「ナルは黙りなさい。どーせ貴方が何か無神経なこと言って麻衣ちゃんを怒らしたんでしょう?」
「・・・・・・・・・」
「ほら黙った。貴方は都合が悪いとすぐ黙るのよね」
「あの、まどかさん、深い意味はないよ?」
 ナルに詰め寄るまどかに麻衣がフォローする。だがナルを見る表情は硬い。何かがあったのは明白だ。
「機材積んじゃいますね」
麻衣は振り切るように部屋を出て行った。
 その場には複数のため息と困惑が残された。

>>01へ
イギリス編でとーーーっても書きたかったお話です。ナルの株が大暴落すること請け合いです。でも大丈夫、ちょっとは上がる筈だから!全部で7話くらいかな。
あ、ニオイ分析機とか全く分かりませんので変なとこあってもスル―してくださいまし。CSIであった機械をモデルにしてるけど本当にあるかどうかは不明。架空な機械だと思って下さい.

2011.10.25修正
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