「おはよう」



『只今の最高気温は35度です』

 お昼のニュースを聞いて「今日も暑くなりそうですねぇ」と涼しい顔で安原は言うが、麻衣は聞かされた温度に軽い絶望感を味わった。これで連続7日間35度超えだ。いい加減にして欲しい。
 罪もないニュースキャスターをつい睨んでしまう。
 涼しいオフィスにいる今はいいけれど帰宅した時が地獄だ。トイレ共同・風呂なし・エアコン無しの6畳一間は連日うだるような暑さだった。
 今年は記録的な猛暑らしく、こんなに辛い夏は初めてだ。暑さに負けて窓用エアコンをつけようと考えたが、建物の問題で敵わなかった。古い建物で全体の電気容量が足らないらしい。容量を上げるには工事が必要で、混んでいるから夏の後になると言われた。気の毒がった大家さんが扇風機を貸してくれたけれど、この暑さではあまり役に立っていない。
 何よりも寝れないのが辛い。
 いつもなら窓を開ければ寝れたのに、向いの家からエアコンの室外機が排気した暑い風が入り尚更暑い。おかげで暑くて熟睡できない日が続いていた。体力に自信のある麻衣でも睡眠不足が続けばさすがに夏バテにもなる。体が重く、オフィスに来るのも一苦労だった。生活とエアコンのために気合いを入れてやっと来れたくらいだった。
 現在は7月、この暑さがあと一カ月以上も続くのだ。何か対策を考えないと日干しになるのは近い。
(週末だけでも綾子のとこに泊めてもらおうかなぁ・・・)
 カラン・・・
 そんなことを考えていたらお昼に行っていたリンが戻ってきた。暑さを嫌ったナルは外食せず所長室でお籠り中、恐らくリンはナルの食事も買ってきたに違いない。いつもご苦労なことだ。
「お帰りなさい」
 リンはそれに会釈で答え麻衣に数冊の雑誌と本を渡す。
「目録をお願いします」
「はーい!」
 お昼休み終了。ニュースを切り、意識は仕事に流れていった。



 * * *



「麻衣、お茶」

 所長室から出て声を掛けると、茶汲み係からの返事は無かった。机を見ると両手を枕にして寝ている麻衣が見えた。仕事中に良い度胸だ。怒鳴りつけてやろうとしたら「所長・・・」と安原に呼びとめられた。
 視線を向けると困ったような苦笑しているような微妙な顔の安原と目があった。
「お茶でしたら僕が淹れますので、出来れば起こさないで上げてくれませんか?頼まれた仕事は終わってますし・・・」
 などと彼らしくない非常識なセリフが出てきた。
「就業時間中ですが?」
「そうなんですけど、谷山さん具合が悪いらしくて・・・」
 それなら起こして帰らせればいい。具合が悪いのを押して仕事するほど今は忙しくない。
 言わずともナルの言いたいことは分かるのだろう、安原は先回りして言葉を重ねた。
「家に帰ったほうが具合悪くなると思うんですよ。彼女の部屋はエアコンが無いので、この数日ほとんど寝れてないようなんです」
「・・・・・・・・・」
 このうんざりする暑さの中、エアコンの無い部屋はさぞ地獄だろう。自分ならとても寝れない。そう思えば多少は同情に値する。軽くため息をついて麻衣の様子を見ると、横向きのその顔は通常より赤い気がした。
(これは・・・・・・)
 額に触れると案の定熱かった。高熱とまではいかないが熱があるようだ。
「熱があります」
「えっ」
「軽い熱中症かもしれません。松崎さんに連絡をとってもらえますか?」
「はいッ」
 安原に指示をだし、机にうつぶせている彼女を抱きあげてソファに横たえた。
 熱があるなら仕方ない。世話好きな母親代わりが到着するまで、オフィスは暫し救護室とするのを許した。
 

 
 * * *


 ゆらゆらと腕が揺れている。足も揺れている。
 体も揺れてるようだ。

「・・・?」

 ぼんやりと目を開けると視界に黒いものが映った。体は心地よい暖かさに包まれ、揺れ続けている。揺り籠のような一定のリズムでひどく眠けをさそう・・・。自分は夢見ているのだろうか。
 確かめるために体を起こそうと動かしたら
 
「寝てろ」

 上から聞き覚えのある声がふってきた。
 夢ならジーンかなと思ったけれど、この言い方はナルだ。もう間違えはしない。
(ナルが寝てろというなら寝てていいんだろう)
 ナルは時に無情で厳しいことを言うけれど、間違ったことは言わない。自分と意見が違うことがあっても根っこのところでは信頼している。多分、誰よりも信頼してるかもしれない。そのナルが寝ていろというのだ、その言葉に逆らう理由はない。
 麻衣は絶対的な安心感につつまれて、再び瞼を閉じた。


 * * *


 眩しさに目を開けると、視界に映ったのは見知らぬ天井に見知らぬ部屋だった。
 麻衣は6・7畳くらいの部屋に敷かれた布団のに寝かされていた。その頭には氷枕が敷かれていた。部屋を見回すと雑然と物が積み上がっていて、物置のようにも見える。その大半が本だった。そのタイトルは殆どがアルファベットで、見知った非常にマニアックな単語が多い。ぼんやりとこの部屋の主がわかった。
(ええっと・・・・・?)
 何故自分がこの部屋にいるのか、麻衣は記憶を辿ろうとするが失敗する。事務所にいた後以降の記憶が無い。ぐるぐると悩んでいるうちに

 ガチャッ

「・・・起きたか」

 予想通りの家主様が現れた!
 自分は一体どんな迷惑を掛けたのだろうか・・・?想像するだけで血の気が引く。
 怖々と「お、おはよ、ナル・・・」そう答えるのが精一杯だった。 


 * * *


 ナルからここに至る経緯を話を聞いた後は顔から火が出るかと思った。
 発熱して事務所で寝こけた自分。最初綾子が呼ぼうとしたら捕まらなかった。エアコンのない麻衣の部屋だと悪化する可能性があり、かといって病院に連れて行き入院させるほど熱が高くないので、緊急処置としてナルの部屋に運び込まれたそうだ。
 それから十数時間、こんこんと眠り続けたらしい・・・。

「ご、ご迷惑をおかけしました・・・」
 布団の上からへへーとひれ伏した。さすがに病人に皮肉を言う気にはなれないのか、ナルは追求せずに逆に具合を尋ねられた。
「熱は?」
「多分・・・無いと思う・・・」
 多少ぼんやりするし、体はだるいけれど、頭はスッキリしていた。やはり寝不足が一番の不調原因だったのだろう。
「軽い熱中症だな。今日は一日寝ていろ」
「でも・・・」
 さすがに悪いので帰宅して部屋で休むと主張したが
「エアコンのない部屋に戻って休めるのか?本日の予想最高気温は37度だそうだが?」
「・・・・・・・・・」
 余りの温度に目眩がした。
「体調管理も仕事の一つだ。倹約も結構だがエアコンを購入する気はないのか?」
「そうしたいんだけど・・・」
 買いたくても買えない経緯を伝えた。
「暫く綾子んとこに居候させてもらおうかな・・・」
「松崎さんは旅行中だ」
「ええぇッ!?」
「昨日突然避暑に行きたいと言いだした母君に付き合って、2週間ほど北欧に行っているらしい」
「さすがお嬢様・・・」
 一番当てにしていた避難場所が駄目になってしまった。もっと早くに相談していたら部屋のカギを預って留守番するという手もあったのに・・・。間が悪い。あと一人暮らしなのはぼーさんだけ。でも仕切りのないワンフロアでは女の子の事情ってやつでいろいろと不便だ。そう思い悩んでいると

「松崎さんが戻るまで、この部屋に居候するか?」

 ナルから信じられない提案が出た!
 そんなの悪いとすぐさま断ろうとしたけれど、ナルの部屋なら個室になってて不都合は無いし、事務所からも近い。大学からも遠くない。しかもこの素敵マンションは私好みなインテリア。何回か来てるので勝手知ったる部屋だ。それにナルはすぐ書斎に籠って仕事してしまうので、私は気を遣わなくてすむ。綾子のところに行けば甘えられるけれど、その分長居はしにくい。世話好きな彼女は全然良いと言ってくれるけれど、どうしても悪いと思ってしまう。その点、ナルは私に気を遣わないのでこっちも気にしないで良い。どーせ家事でこき使うだろうから遠慮する必要もない。もちろん変な心配をする必要もない。ナルは異性だけれ遠慮する必要のない気楽な相手でもあった。女として見られてないと結構気楽だったりする。
 ・・・実は結構美味しい提案だった。
(でもプライベートに人が入り込むのをヨシとしないナルがどんな風の吹きまわしだ?)
 不審げな私の視線にナルは無表情に「もちろんタダとは言わない」と答えた。
「やっぱり・・・」
 予想通りすぎる答えに脱力する。今度は何をやらされることやら…。
「宿代は体で払ってもらう」
 と、無表情に言い放ち「それまで寝てろ」と言い残して部屋から出ていった。

 その、聞き様によってはどんでもない一言に、熱でなく顔が火照った麻衣だった。


 * * *

「ま、こんなことですよねー・・・」
「?麻衣、次はこっち」
「はいはい」
 オフィスが休みの本日、ナルと二人で本棚作りの作業をしていた。

 『体で払う』の意味は『体を使った仕事をして払う』だった。

 ナルは書斎に入りきらなくなった本を別室(麻衣が泊った部屋)に本棚ラックを組み立てて整理しようと思ってた。そこへ丁度猫の手部下がやってきたので手伝わせようと思いついたらしい。ラックの組立、本の整理、目録作り、+家事、をやるかわりに居候させてくれるということだった。事務所が休みな日は一日従事しなくてはならないが、その分はバイト扱いにしてくれるというので悪い条件じゃない。文字通りどれも『体』を使った労働だ。間違いじゃぁない。

「でも『体で払う』なんて紛らわしい言い方しないでよ」
「間違いではないはずだが?」
「そうだけど、ちょっと微妙な意味で使われることが多いの!」
 麻衣はその微妙な意味までは言えず、顔を赤らめた。
 その様子を見たナルは大体の意味を察したのだろう、ニヤリと皮肉げに笑った。
「何を期待した?」
「!!!んなわけないじゃんか!馬鹿!!」
 顔を赤くしてギャーギャー喚きながらも麻衣は手を動かしてラックを組み立てる。ナルは無表情に指示して黙々と作業する。まるで調査中のような光景だった。

 そんな色気のない二人の、期間限定な同居生活の始まり。



>> 「おかえり」「ただいま」



一度はやってみたい同居ネタ。アパート全焼、ストーカー対策、いろいろ同居理由を考えた中で一番穏便なのを選びました。去年の夏は殺人的な暑さだったので麻衣はどうしたんだろうと思ったとです。

2011.2.18
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