「忘れてやる」
そう言い放ったのは俺だ。
だが何年も経った今でも、あいつの名前を忘れることが出来ないでいる。
最初のニ・三年くらいは、すっかりきっぱり忘れていた。
忘れて家康と一緒に国の安定に尽力した。くそ忙しくて昔を思いだす暇なんかなかった。
領土が広くなると後ろも前も左も右も敵だらけだ。
息つく暇もないくらい忙しかった。北へ南へと奔走した。
ひとまず安定した後は家康に任せて俺は海に出た。
生き残った奴らと新たに加わった奴らとで気ままに海に出て、帰って、また海に出る日々に戻った。
果てしなく広がる空と水平線。
その先にあるお宝への夢を船に乗せ、気のイイ奴らとその先へ進む。
海はいい。海には全てがある。
・・・そう錯覚できる。
この船でわからないことはない。
全てが目に見える範囲で起きてるから面倒事が起きてもすぐ解決してやれる。
この船に乗ってる奴らなら守ってやれる。
そう自負している。
だがいつまでも海にはいられない。
国に戻ったらどうだ。
俺の知らねー面倒事がわんさかと襲ってきやがる。
谷や息子どもにせっつかれて処理をする。
そんなんてめーらでやっとけと言うが「これだけは国主にしか決済できないと判断したもののみ渡してます」と言われる始末だ。
ちっ面倒くせー立場になっちまったもんだ。
俺は大国の国主なんて大層なもんより一介の海賊であれば良かったんだ。
喧嘩してたらいつの間にか四国が俺の国になっちまっただけで、大きい領土が欲しかったわけじゃねぇ。
家康に手を貸したが大きい領土が欲しかったわけじゃねぇ。たまたまだ。あいつを助けるうちに俺を慕う野郎どもも増えた。こいつらを今さら放り出すこともできねぇ。家康に預けられちまった土地も放り出すことが出来ねぇ。
(まあカラクリ作るのに金がかかったから見入りが大きくなって助かったけどな)
けど政治なんざ面倒くせーことこの上ない。そんなの有能な奴に任せればいいと思ってる。
そういう点、あいつは有能だった。
たまに安芸の国へ行く。
あいつが生きてる時もお忍びで行ってたが、今は堂々と行けるので前より頻繁に行くようになった。
小京都と言われる街並みは小奇麗で好きじゃないが港はいい。使いやすく、便利だ。
他にもあの国の品物はいい。
備前焼きは丈夫で長持ち、あれにいれた水は腐りにくい。
反物も質が良いし、飯も酒も美味い。
商売する場所としちゃ滅法面白いのだ。
これらすべてを作ったのはあいつだ。毛利元就だ。
あいつは有能な治世者だった。
あいつがとった政策は全て安芸のためになりこそすれ、壊す必要がなかった。逆に四国に取り入れたものも多い。
知れば知るほどあいつの有能さが目に付いた。
だがあいつが守ったもの、作ったものは、今も残って俺に見せつける。
『ここは我の土地ぞ』と主張する。
最初は忌々しいと思っていたが、冷静になればあいつの有能さは流石としか言いようが無い。
もしあいつにそう言ったら『ふふん、海賊ごときでも安芸の良さが分かるのだな』と小馬鹿にした目で見るんだろう。
そういう顔ばかり容易に思いだせる。
瀬戸内の海を通り安芸へ向かう途中、ひどく難しい海流がある。
外から見ると美しく穏やかな水を湛えたような海に見えるくせして、実は滅茶苦茶荒い。
渦まいて静かに荒れ狂う潮が面白くもあった。
まるであいつのようだといつも思う。
あいつは静かに荒れ狂っていた。
誰よりも冷静に、深く暗く、故郷への情という水を湛えていた。
いや、情なんて可愛いもんじゃねぇか。ありゃ執着だ。
故郷への情が強すぎてとち狂ったんだから妄執と言うべきかもしれない。
瀬戸内の渦潮のように不可解で難解な野郎だった。
いまだにあいつがあんなことをした理由が俺には分からねぇ。
どうしてそこまで思いつめたか分からねぇ。
今も昔も俺はあいつのことは分からないままだ。
もし今生きてて、話しあえたとして分かりあえたとは思えない。
一生分かり合えないままだったろう。
人の内部なんざ目に見えねーんだ。仕方ねぇ。
だが、何かもっといい方法は無かったのか?
あいつと敵対しない方法はなかったのか?
そう思う時がある。
俺もあいつも瀬戸内の海を愛していたのは同じだ。
あいつは安芸を、俺は外海へ意識が向いていた。
本来なら敵対するはずがねーんだ。
なのに何故…。
歳くって、少しは落ち着いた今になって思うことがある。
あいつんちの誰かと結婚でもして縁を結び、裏切れないようにすりゃ良かった。
あいつは身内に弱い。背後を取られることは無かっただろう。
気に食わない野郎だが、あいつの有能さと安芸への執着は信じても良かった。
それを利用すりゃ良かったんだ。
(青い俺には出来なかったがな・・・)
若い俺は張り合ってばかりで、意識が外ばかり向いて考えが浅かった。
先のことなんか何も考えていなかった。
自分しか見えてなかった。
逆にあいつは自分のことを考え過ぎて、失敗した気もする。
お互いもっとうまくやってれば、俺は気ままに海を楽しみ、あいつは今でも安芸にいられたはずだ。
そうしたら俺もおめーも、もっと楽しい老後を送ることが出来ただろう。
でも今はあいつは安芸を失い、俺は自由を失った。
瀬戸内海を眺めながら、ありもしない可能性を思うなんて俺も歳食ったもんだ。
「…俺もおめーも損したな」
そんな俺の愚痴を、海は黙って飲み込んだ。