昏く、
深く、
遠く、
沈む。
「春を知らず」 1
物心ついた時から、アノ部屋にいた。
そこでは誰も自分が見えず、構わず、触れず。
視界にも入らない。空気のよう。
学校にはちゃんと行ったし、
そこでは、話す人間がいたが、
部屋に帰ると、自分が見える人間はいなかった。
家政婦が、世話はしていた。
食事や、洗濯、掃除は、家政婦がしていた。
もちろん、自分は見えない。
外では見えるようになるのが、逆に不思議だった。
ある日の学校の帰り。
雨が降っていたが、
傘がないので、濡れてかえった。
頭から、カバンの中や、ふくまでずぶ濡れだった。
部屋に家政婦はいたて、勝手に掃除をして、食事を置いて出て行った。
面倒なので濡れたままその食事を食べ、ベッドに入って眠ると、
次の日、何故か起き上がれなかった。
頭に怪我をして帰った日。
夕飯を持ってきた人間が、
血を流す俺をを見て、驚いた表情をした。
いつも、何もないように、トレイをおくだけの人間が、
ビックリして、そして、しまったという表情をしたあと、
意を決したような顔で、話かけてきた。
・・・・どうしたんですか、その傷は。
しゃべれるんだ。
感想はその程度で、自分に向かっているとは、考えもしなかった。
だから、返事もせず、感心していたら、
手当てをしましょう、といって、綺麗な、真っ白な布で、頭から流れる血をぬぐった。
キズは深かったらしく、拭っても止まらず、袖も赤くそまった。
その色だけ覚えている。
内緒ね、といって、頭をなでてもらった気がする。
顔は覚えていない。
ぬぐった赤だけ、覚えている。
次の日、その人は現れなかった。
* * *
家政婦はコロコロかわった。
自分を認識するたびに、消えていった。
まるで始めからいなかったように、
新しい人間が世話を始める。
自分がいないように扱う。
自分に声をかけたあのひとは、
やっぱり始めからいなかったんだろう。
「春を知らず」 2
ある日、帰り道の公園で、猫にあった。
いた、というべきか。
泣き声がして、茂みをのぞいた。
怪我をしていた。
頭からダラダラ血が流れていが、けれど生きて、動いていた。
赤い。
ふと目を開けこちらに視線だけ向け、
みゃう、とか弱く鳴いた。
次の日、その猫は、その場所にまだいた。
死んでるようだが、寝ているだけだった。
それだけで、その日はぼんやり立ち尽くして、
いつまでも見てた。
帰り際に寄るようになった。
最初は死に際寸前だった猫が、少しずつ、動けるようになっていた。
血はかたまって、傷を塞いでいた。
ある日には、水を与えた。
美味そうに、飲んだ。
みゃーと、力強く鳴いた。
さらに次の日。
雨が降っていた。
猫は、近くの道の真ん中で、死んでいた。
頭の傷は、ふさがっていたが、
腹の中身が全部でていた。
* * *
何かをできるわけでもなく、
ただ雨の中でたっていただけ。
内臓だけでなく、手も無くて、
地面と同化していた。
ついに触れることもなく。
逝った。
そんな風に、自分もなるんだろう。
「春を知らず」 3
ある日、
叔父と名乗る人が、唐突にやってきて、
行くぞ、こんなところにいるな。
と言って、手を引いて部屋を出ようとした。
扉から出る直前、
必要なものがあったら、
持て行きたいものがあったら、持って来い。
ここにはもうこねぇから、と言う。
何もないよ、と答えた。
そうか、と困ったような、どこか痛いような顔で、
頭をがりがりと掻いた。
煙草を、いつ吸い始めたか覚えていないが、
アノ部屋を出てからだったことは確かだ。
あの部屋から、葛西さんの部屋に移った。
それ以外は、今までどおりの生活をした。
不器用な人らしく、
一般的な家族をしようとする気も、
一般的な常識と良識を遵守する気もないらしく、
彼は自分が得意なものを勧めた。
煙草と麻雀。
一度覚えると、それにのめりこんでいった。
* * *
勝負の時の緊迫感と緊張感。
雀荘に出入りするようになったのは、
自然な成り行きで。
部屋にいるのが別段息苦しいわけでもなかったが、
馴染む事もなかった。
「春を知らず」 4
行きつけの雀荘で、その時気に入られていた人の代打ちで、
でかい大会で、うってみないかと、持ちかけられた。
勝ったら、今までと二桁違う金が手に入るぜ。
負けたら指詰めるくらいじゃすまないが。
ともいった。
デメリットもわざわざいうとは、正直な性格らしい。
別に金額には頓着しないので、暇ならといって、
代打ちで出た。
自分以外の3人がグルだったことに
開始早々気がついた。
気にせず、いつも通りに打って、
いつも通りにあがった。
たいした強運だと、感心して褒めちぎっていたが、
イカサマしたからねと、タネをばらす。
強面連中のあの人数で囲まれて、
お前、イカサマしてたのかよ、
と驚くが、そうでなければ、勝てるはずがない。
急に納得した顔で、うんうんと一人頷き、
分け前だと、鍵を渡された。
横浜のマンションの一室。
俺は葛西さんの部屋を出た。
(Aに続きます)