夜 02

「ナル―、お茶だよ・・・って何不機嫌な顔をしてんのさ」
 お盆を片手に入室した麻衣がナルの不機嫌オーラに気付いた。でも慣れたもので、麻衣はナルにジロリと睨まれてもへらっと笑って紅茶を置いた。自分に原因が無い場合は全然気にしないのだ。
「依頼人が過去の交際相手だったそうだな」
「あ、うん」
「何故報告しなかった?」
「へ?だってナル執筆中で上の空で聞いてたし、そんなのナルが気にするとは思えなかったから・・・」
「・・・・・・・・・」
「言いにくいってのもあるけど、もう先輩とは何でもないんだし、わざわざ言うのも変じゃない?」
「・・・そうかもな」
「ナニナニ、何か問題でもあった?」
「いや、ない。悪くない調査結果だった」
「そう良かった!」
 麻衣はパアッと明るい笑顔を見せた。この無邪気な笑顔を見ると自分が酷く心が狭く言い掛かりをつけている気にさせられる。
「・・・何か欲しい物はあるか?」
「え!?な、なにを突然」
「家で僕を手伝ってくれたからな。・・・その分の時給をお前は受け取らないだろう」
「あ・・・うん、お金はいらない、かな」
 だって家族ならサポートをするのは当然だから、と言いたがったが続けられなかった。
「でも欲しいものは特に無いよ?」
「なら食事にでも行くか?」
「いいの?」
「ああ」
「今日でもいい?」
「構わない」
「やった――!」
 麻衣はお盆を持ちながらぴょんぴょんと跳ねて喜んだ。二十歳とは思えない幼い仕草に口元に浅く笑みをはく。
「食べたいものを考えとけ」
「うん!」
 麻衣は満面の笑顔のまま所長室を退室した。ナルはたかが食事でこんなに喜ぶなんて手軽な奴だと呆れながら、最悪だった機嫌はいつの間にか浮上していた。

 その後に入る一本の電話までは・・・


 * * *


「ナル、サラ・ヘンダーソンからお電話です」
 リンが国際電話をナルに取り次いだ。
 麻衣は仕事をしながら聞いたことのない女性の名前に一瞬手が止まる。ナルが女性に興味が無いのは知っている。でもつい気になるのが女心だ。
 ナルの周辺には才色兼備の令嬢がわんさかと寄ってくる。自分よりずっとナルに相応しい女性達が手ぐすね引いてナルを誘惑しようと狙っている。
 その筆頭がキャサリンだった。
 彼女とは後で和解できた。キャサリンは入院している私の元へ謝罪と、助けてくれたことへの感謝を言いにお見舞いに来てくれた。最初は許すつもりなんかなかったけれど、彼女は羨ましいほどの美貌に大きな絆創膏をして台無しにし、三角巾で腕を吊り足を引きずりながら青い顔で深々とお辞儀する姿に怒る気が失せた。二人でお茶してナルの悪口で盛り上がり、何故か仲良くなってしまった。今じゃメル友だったりする。
 あの時は私は紛い物の恋人だったから気にしないでいられた。でも今は彼女達と立場は同じ。誰よりもナルの傍にいるけれど、ナルと結ばれたわけじゃない。
多分ナルは私のことをそれなりに想ってくれていると思う。でないとさっきみたいに食事に誘ってはくれないし、そもそも同居までしないだろう。一緒に生活してればナルの気持ちが自分に向かっているかもしれないと感じる瞬間がある。一緒に食事している時や、家ですれ違う時に視線が絡み合う時、ソファで並んで座って触れ合う時に。今までの彼氏とは全然糖度も親密さも足らないけれど、あたたかなものが二人の間に流れているのは確か。
 だけど彼の中で明確な答えが出ないのかまだ私には何も言ってくれない。ナルを信じているし待つつもりだけれど、時に不安で些細なことでも反応してしまう。
(やだな・・・)
 自分が酷く心が狭くなった気がする。心の狭さは不安の裏返し。麻衣は不安をため息で吐き出し、気を取り直して作業を続けた。
 やがてナルが所長室から出てきた。眉間に皺がより機嫌が良く無さそうだ。
 先ほどの電話のせいだろうか?
「お茶?」
「いや・・・、リン出かけてくる」
「はい、どちらへ?」
「ミス・ヘンダーソンと面会してくる」
「・・・分かりました」
 ナルはここから近い一流ホテルの名を伝えた。
「・・・じゃあ今日の約束はキャンセル?」
「それまでには終わる。ホテルの前で待ち合せしよう」
「分かった!」
 約束は有効だと聞いて麻衣は弾んだ声を上げた。そんな麻衣を一瞥し、ナルは気が進まない様子で事務所を出て行った。
「サラ・ヘンダーソンさんてナルの後援者ですか?」
「正確には彼女の父君がそうです。アメリカの富豪で、ナルがローティーンの頃からの古い支援者です」
「そうですか・・・」
(だからナルも面会を断れないのだろうか?)
 でもいつものような心底嫌だという感じじゃない。気が乗らないが仕方ないという感じだった。
 ナルのいつもと違う様子が心に影を落した。



2012.5.16
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