過去の人 07

「ただいま~」
 羽田空港に到着し、真っ直ぐ自宅へ帰り着いた頃には午後十一時を過ぎていた。
 午後十一時なんてナルにとってはまだまだ宵の口だ。起きてるだろうから大きな声をかけて帰宅を告げる。
 遠慮ない足音を立ててリビングに行くと、案の定そこには本と書類で散らかっていた。
 ナルは書斎とリビングを行ったり来たりしながら論文を書いていたのだろう。本と書類とメモ類がテーブルに積み上げられ、溢れて床にまで零れていた。本にぶつかって転がったのか、床に使用済みのコップまで落ちている。ソファ周りも同様だった。
(論文中はこれだから…)
 普段のナルはキチンとした生活態度だけれど、論文の時は全く駄目になる。出したら出しっぱなし、零しても汚しても気にしない、というより気がつかない。神経は全て論文に向けられている。
 麻衣はため息をついて、踏んだら危険なコップのみ拾った。あとは明日片付けることにする。
 本人はどうなっているかと書斎を覗くと、ナルが机の上でうつ伏せで寝ていた。
 麻衣はリビングに置いてあったブランケットを持ってきて静かに近寄り、そっと背中にかけた。気配に聡いナルのことだから起こしてしまうかと思ったけれど、余程疲れているのか起きる気配は無い。
 起きないのを幸いにナルの寝顔を覗き込む。
 長い睫が寝息で揺れていた。少し頬がこけた気がする。この三日全く手入れをしていないのだろう、ぽつぽつと無精ひげが生えていた。髪もぼさぼさで、服もヨレヨレだ。こうなっては美青年も形無しだろう。一見の価値はあるけれど陶然とするほどじゃない。
 でも、ナルの寝顔を見ていると甘くあたたかな感情が胸満たした…。
 ジーンを想ったような切ないものじゃなく、先輩の時に抱いた浮き立つものとも違う。もっと穏やかで打ち寄せる波のような感情。
 この感情の名が、ストンと胸の中に落ちてきた。

(私はナルが好きなんだ…)

 先輩のように心が浮き立ちもしないし、ジーンのように甘く切なくもならない。だけど、好きなんだと、今ようやく認められた。どのくらい前から好きだったのかは分からない。いつの間にか好きだった。
(ううん、多分ずっと前から好きだった)
 でも広い意味での好きで、男女の恋愛に限らなかった。ずっとつかず離れずで傍にいられれば良かった。この暖かで穏やかなでもちょっぴり腹が立つ好きが心地良かった。だからそれ以上深く考えなかった。
 でもこうして誰よりもナルの傍にいる場所にいて欲がでてきた。
 もっともっとナルに近づきたい、もっともっとナルと寄り添っていたい、もっともっとナルが欲しい…。

 そしてナルに愛してもらいたい…。

 恋は一人でも出来る。
 けれど愛し合うことは一人じゃ出来ない。
 私はナルに私を好きになって欲しくなってしまった。女として愛して欲しくなってしまった。それはとても自然な欲求だけれど、ナル相手に望むのは難しい。
 だから、傷つきたくなくて、私はナルのことが好きなのを認めたくなかった。認めたら欲しくなる。知らない振りしていればずっと傷つかずに傍にいられた。
 だけどもう認めずにはいられない。
 たった三日離れただけなのに早く帰って会いたかった。顔が見たかった。この無精ひげでやつれた姿すら愛おしい。疲れてるナルを起こしてでもその声が聞きたい。そんな欲求が湧き上がる。これじゃナルのことを好きかどうか分からないなんて言えない。
 麻衣はそっとため息をついた。
 このまま傍にいれば本当に起こしてしまいそうで、そっとナルの傍を離れた。

「おやすみ…」

 静かに書斎をあとにした。





2012.4.25
× 展示目次へ戻る ×