過去の人 06 |
翌朝、私たちは撤収の準備を進めた。 もう一泊してゆっくりされては?と女将さんが言ってくれたけれど、良質データが取れてホクホクのリンさんはすぐ帰って解析したがったので丁重に断った。和室に映った影も、煙に浮かび上がったつやさんもそれぞれエラーがほとんど出ない状態で撮れたらしい。良質データが取れたと教えてくれた時、珍しく口元がほころびどことなくウキウキした様子だったから余程良いデータが取れたのだろう。ぼーさんは一泊したいなーとごねたが、リンさんは聞く耳も持たなかった。往生際悪くぼーさんは「麻衣ももう一泊したいだろう?」と私を味方にしようとしたけれど、私が頷かなかったので渋々撤収仕度を手伝いはじめた。 正直に言えば私ももう一泊したかった。秋の北海道は美味しいものが一杯だし、時間を気にせず温泉を楽しみたかった。未練はたっぷりあるけれど、私は早く帰りたかった。 撤収準備を終えて宿の人が送ってくれるのを待ってるまでちょっと暇が出来た。私は裏庭の片隅で携帯からある番号を呼び出して通話ボタンを押した。 TRRRRR、TRRRRR、TRRRRR… かけた相手はナルの携帯。論文中なのでどうせ留守番になると思うけど、今日帰ると伝えたかった。だが予想に反してプツッと会話が通じる音がした。 『麻衣か?』 少し掠れた、無愛想なナルの声が携帯越しに聞こえた。 「ナル?もう論文終わったの?」 『ああ。あとは見直しだけ』 「良かった!私がいない間ちゃんとご飯食べた?」 『…適当に』 この間は全く食べなかった訳じゃないけどちゃんとは食べて無いと見た。まぁ予想範囲内だ。帰ったらたっぷり栄養のあるものを食べさせてやる! 「あのね、調査終わったよ。リンさんが良いデータが取れたって喜んでた」 『そう。…お疲れさま』 掠れたテノールに胸がじんわりと温まる。私はこの一言が聞きたかったのかもしれない。 通話を終えて皆の所に戻ろうとしたら大輔先輩がいた。先輩は気まずそうに頭をかいてたから話を聞いていたのかもしれない。 「先輩…」 「帰る前にちょっと話したかったから探してて…悪い、聞こえた」 「あ、いえ…大したこと話してないし…」 ただナルにこれから帰ると伝えたので、それを聞かれたのなら元彼女としてはちょっと気まずい。 「電話の相手って、もしかしてバイト先の上司?」 小さく頷いた。大輔先輩はナルのことをよく知っている。私がバイト先で有能だけど毒舌で世話のかかる上司がいるとよく話したし、その上司が私が好きだった人の弟だと言うことも伝えてある。 「そっか…」 「……」 先輩は暫く黙った。聡い人だからナルが指輪の送り主だと気付いただろう。 「今回俺が全然知らない麻衣をたくさん見た」 「え?」 「麻衣から話は聞いていたけれど、実際見てみたら想像以上で驚いた。お前凄かったな」 「凄いって…全然私何かみそっかすで、皆の方がもっと凄いよ!」 両手を振って否定する。真正面から褒められると困ってしまう。 「麻衣に付いて来て欲しいって言って断られた時、正直に言えば悔しかった。俺よりバイトを取るんだなって」 「………」 「麻衣が仕事頑張ってるのは聞いてたけど、どこかでたかがバイトだと侮ってた。バイトならお前の代わりなんかいくらでもいる。なのに俺よりバイトを取るんだとお前を攻めたかった。でもそれはプライドが邪魔して言えなかった。結局俺は死んだ男に負けたんだと、そう思うほうが納得できた。お前の前でみっともないところを見せたくなかった。…振られた男の見得だな」 「先輩…」 別れる時、先輩は私を詰らなかった。仕方ないと微笑んでくれた笑顔の影で、そんな思いを抱えていたなんて全く気付かなかった。私のバイトに理解をしめしてくれてたけれど、実は影で我慢していてくれたのかもしれない…。 「でも今回の調査で頑張るお前を見たら、あれは完全な俺の我侭だった。俺が働き始めたから今だから納得出来たのかもしれないな…。お前、何でもテキパキとこなしててベテランって感じだった。あれ見てたら俺はまだまだだと思い知らされた」 先輩はちょくちょくベースに顔を出して様子を見に来てくれた。その時に私の様子までよく見てくれたとは思わなかった。自分なんかまだまだだと思うけど、身近だった人に褒められるのは面映いけど嬉しかった。つい顔が赤くなる。 「なぁ、今の彼氏は前に好きだった男を忘れさせてくれそうか?」 突然の話の転換に驚く。どう答えようかと逡巡して、上手く言えずに首を振った。 「亡くなったのは彼氏のお兄さんだっけ?」 「うん。双子だからすごくよく似てます。だから忘れるどころかよくジーンのことを思い出す。二人でジーンの話をすると、何だか三人でいるような気になるくらい」 実は先輩と付き合ってた頃より今の方が余程ジーンのことを思い出している。だけど先輩と付き合っていた時はジーンを思い出すと先輩に対して申し訳ない気がした。どこか後ろめたかった。でも今は思い出しても胸は痛まない。すぐ傍にナルという話相手がいるからかもしれない。先輩には言えなかったけど、ナルには気軽に言えるから。 ただたまにジーンのことを話すと微妙に不機嫌になる時がある。私には分からない兄弟の確執があるのかもしれないと勝手に思っている。 そう話すと、先輩は「そっか」と笑った。何でか知らないけれど納得したような笑みだった。 「麻衣はお試しで付き合ってるなんか言ってたけど、その上司のこと好きなんだろ?」 これにはすぐに答えられなかった。 「……正直よく分からないんです。好きだなぁって思うことは無いんですよ。全然優しくないし、腹立つことのが多いし、でも嫌いにはなれません。…でも大事な人だってのは分かるんです」 「腹立つけど嫌いじゃない。失いたくない。好きだけじゃしっくりこない。それって愛だよ愛」 「って何でそうなるんですか!?」 「そんなもんだって、元彼の言葉を信じなさい」 「・・・・・・・・・」 「はぁ~・・・完全に振られたな」 その呟きは非常に小さく、麻衣の耳には届かなかった。 「先輩?」 大輔先輩はニッと笑って右手を差し出した。 「今回は本当に助かった。祖母ちゃんを、俺達を助けてくれてありがとな。これからも頑張って」 「はい、先輩こそ頑張って下さい」 出された右手をギュッと握り、笑顔で答えた。 その手をぐいっと引かれた。 「えッ…」 先輩の胸に引き寄せられ、ギュッと抱きしめられた。覚えのある硬い胸板と、暖かさに顔が赤くなる。 「元気でな」 こうして先輩の声を聞くのは最後かもしれない。先輩の腕の中で小さく頷いた。 |
2012.4.25 |
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