過去の人 01

「ナルの様子はどうですか?」
 午後のお茶の時間、リンさんが聞いてきた。
「とりあえず倒れてはいません」
 私がにっこり笑いながら答えると、リンさんは「では大丈夫ですね」と苦笑した。

 約一ヶ月前に、ある投稿論文の受付が始まった。
 それからずっとナルは缶詰状態で執筆に励んでいる。最初の頃は私達も資料作成などのサポートに駆り出され嵐のような忙しさだった。私よりかリンさんと安原さんのが酷い。二人とも何泊も午前様が続いた。私は今までサポートと言っても雑用がほとんどだったけれど、夏に本家へ行った経験のお陰で前よりはナルのお手伝いが出来た。
 今回は締切が受付開始から一カ月後なのでマシなほうだった。お陰で締切前にこうしてのんびりお茶を飲む時間がある。以前二週間後という鬼のような締切もあって、あの時は何泊も事務所に泊ったし、締切当日まで凄い修羅場だった。目が血走ったナルを見たのは後にも先にもあれが初めてだ。
 今ナルは自宅の書斎に籠り、ひたすら考察結果を論文に起こしている。
 この状態のナルはほとんど寝ない。立ったまま寝ていることすらある。ご飯もほとんど食べない。お茶と一緒に差し出すカロリーメートを一口二口齧る程度。そのお茶も佳境に入ると全く飲まない。ティーカップが邪魔になるからだ。するともっと何も食べなくなるので、今度はポカリスウェットなどのスポーツ飲料に果汁を追加してストローで飲める容器に入れて置いておくと、喉が乾いたら手を伸ばして口に含むくらいはしてくれる。水分と糖分が足りてれば人間数日間はなんとかなる。悲しいことに何度も実証済みだ。
 今朝書斎を覗いたら調子良くキーを叩く音が聞こえた。あの様子では一番の佳境は過ぎてると思われる。締切は一週間後だから今回は余裕で終わりそうな気配。顔がげっそりしてるけれど顔色が最悪では無いので倒れる心配もない。そう伝えるとリンさんは安堵したように微笑んだ。
「最近はちゃんと食べて寝ているようなので体力がついたのでしょう。谷山さんのお陰です」
「あはは、だといいんですけど・・・」
 褒められて嬉しいけれど、同居してれば相手の体調を気遣うのは当然だ。褒められると面映ゆい。
 普段はナルの不摂生さに口酸っぱく文句を言うようにしてる。言えばナルは渋々にでも少しは折れてくれると知ったからだ。でも今回のように論文締切の場合は何も言わないようにしている。
 過去に同じような状況で酷い顔色のナルに向かって「お願いだから休んで」と言ったことがある。もちろん黙殺された。それでも身近な人が倒れるのを見るのはもう嫌で心配だと訴えたら容赦なく事務所から追いだされた。
 追いだされて泣きべそをかいた私に、安原さんが優しく諭してくれた。
「所長達研究者にとっては研究が命です。体と研究どっちをとるか聞いたら間違いなく研究を取るでしょう。でもその研究も発表して認められないと無いも同然です。どんなに素晴らしい研究も論文にして発表しないと価値がありません。その論文もいつでも発表出来るという訳じゃない。締切に間に合わせて初めて発表のチャンスが得られるんです。所長達が少々無理するのも当然だと思いませんか?」
 まだ高校生で論文とか学会とか全く分からなかった私は、論文は高度な課題提出程度の感覚でいた。それがどれだけ重要なのか全く理解していなかった。体が資本なんだから無理して壊したら元も子もないと思っていたけれど逆だった。研究者にしてみたら発表出来なければ元も子もないのだ。
 あの時は後日ナルに「邪魔してごめんなさい」と謝った。ナルは例の如く「別に」で流された。
 それからは締切前の無理には目をつむり、普段の不要な不摂生には口酸っぱく注意するようにした。いざと言う時に無理が出来るためには普段からの体力作りが大事だと思う。ナルは鬱陶しいという顔をしたけど気にしない。理はこちらにある。だたの上司と部下の関係の時はナルが嫌がったけれど「ナルが倒れて大変になって事務所が存続出来なくなったらおまんまの食い上げだもんね!」と言い張って世話を焼いた。でも家に押し掛けることは無かったので、こうして家でまで世話を焼くのは初めてだ。でも頑張った甲斐あって今回のナルの顔色はまぁまぁ良いほうだ。倒れるようなことはないだろう。それには満足しているがナルの態度が少々気に食わない。ナルは遠慮無く扱き使うし、世話されて当然のような顔をしているのだ。
(私が心配なだけだから感謝して欲しいわけじゃないけどさ、当然って顔をされるとちょーっと腹立つのよね。しかもこの一週間碌な会話してないしさー)
 締切が終わったら不満くらい言ってもいいと思う。ナルは聞いちゃくれないだろうが。などとどこぞの熟年夫婦のような不満を持ちつつも、ナルのお籠りが終わるまでサポート役に徹するつもりで事務所に来る予定は無かった。
 でも今日は依頼人が来る予定が入り出社した。
 今回の依頼人は私宛に連絡が来たのでリンさんに任せるわけにはいかない。
 ナルが執筆中はリンさんの裁量で簡単な依頼なら受けて良いことになっている。連絡を受けて内容を聞いた限りではナルの興味を引くような事件ではないけれど、安定したデータが取れそうなので多分引き受けることになると思う。
 そして約束時間。
 ブルーグレーのドアの前に大きな人影が映った。見覚えのある人陰に心臓がトクンと跳ね上がる。
 依頼人は荒関大輔さん。
 ・・・私が初めてお付き合いした人だった。

 
 * * *


「では依頼内容を伺います」

 軽く挨拶してリンさんへ彼を紹介し、依頼内容を確認する。別れてからまだ一年も経っていないので意識せずにはいられない。努めてフラットな声をだした。変な誤解を受けないためにもあらかじめ彼との関係はリンさんに話してある。
「毎日決まった時間に勝手にランプが付いて障子に祖母の影が映るんです」
 大輔先輩のお婆さんが亡くなったのは今年の一月、突然のことだったらしい。大輔先輩の実家は旅館を営んでいて、その女将をしていたお祖母さんが亡くなったことで暫く大変だったらしい。しかも運悪くお父さんが事故で入院していた時だった。旅館業は若女将をしていたお母さんが何とか切り盛りしていたが夫の世話と女将の仕事の両立は難しい。その手助けをするために大輔先輩は暫く実家に戻っていた。実家の状況を見て、卒業後は実家に戻ることを決心した。本当は数年東京の会社で社会人としての修行をして戻る予定だった。内定をもらっていた商社に頭を下げ、卒業後すぐに実家に戻って行った。
 彼に「卒業したら来てくれないか?」と言われたけど頷けなかった。卒業後すぐに事務所を止めてお嫁さんになって若女将として修業するという選択肢はあの時の私には重すぎた。今思えば遠距離恋愛しながら卒業までじっくり考えても良かったと思う。でもこの仕事はやはり捨てがたい。答えは同じだったと思う。
 彼への気持ちには蹴りがついている。でも嫌いで別れた訳じゃない。つい意識してしまうのは仕方ない。
「祖母の自室は離れた場所にあるし、夜だったので最初は誰も気づきませんでした。でも祖母が亡くなってひと月ほど経った頃だったでしょうか、母が夜まで遺品の整理をしていた日がありりました。夜中までかかってそろそろ寝ようとした頃、突然文机のランプが点いたそうです」
「それまでは点けてなかったんですね?」
「天井に照明がありましたから必要が無かったので。だからおかしいなと思ってふと障子を見ると自分以外の影が映っていたそうです。・・・あれは祖母だったと言ってました」
 大輔先輩の声を聞きながら、依頼書にさらさらと記入していく。
 背の高い先輩の声は低めで心地よい。懐かしい思いと、ほんの少しだけ甘い気分が胸を占める。
「お祖母さまのお名前は?」
「荒関つやといいます」
 昔の人らしくひらがなの名前だった。
「祖母は毎日夜に帳簿を付ける習慣がありました。影を見たのは丁度その時間でした」
「正確な時間は分かりますか?」
「大体十一時十五分頃です」
 毎日正確な時間に現れるのはデータが取りやすくて有り難い。
「お歳を考えると随分遅めですね」
「お客様へお食事を出し終えて落ち着いた頃というとその時間になるそうです。そのくせ朝も早い。70歳を超えても平均睡眠時間は6時間程度だったと思います」
「それは・・・大変ですね」
「ええ、女将業は激務です。それに祖母はとても厳格な人だったので、引退するまで年寄り扱いはするなと周囲に言ってました。でも長年の無理がたたったのでしょう。倒れてからあっと言う間でした」
 先輩は寂しそうに微笑んだ。
 死因は脳卒中。倒れて、そのまま眠るように亡くなったそうだ。享年七十一歳。少し早い最期だった。
「翌日聞いて僕も見ました。気になってその後も毎日確認したら同じ時間帯にランプが点いて影が見えました」
「亡くなったのは一月ですからもう納骨も終わってますよね?」
「四十九日の日に終えてます」
「そうですか・・・」
 納骨が終わるまで家で故人の気配がするというのはよくある。死者があの世へ旅立つ準備期間に家で家族と過ごすと言われるからだ。大抵は死者が旅立った四十九日が過ぎたり、納骨を済ませたら納まる現象だ。
「私達も四十九日が過ぎれば自然と消えるものだと思っていました。ですが半年以上過ぎた今でも影が映ります。まだ祖母は成仏出来ないのかと思うと可哀想で・・・」
 先輩は沈痛な面持ちで俯いた。一瞬声が震えたが上げた顔には涙は見えなかった。
「私達も最初は影が映るだけで何もないならこのままでもいいと思ってました。祖母は旅館を愛してましたので、守り神のようになってくれればと縁起がいいと勝手に考えてました。でもたまたま従業員に影を見られてしまいました。古参の者でしたから変な噂は立てないでしょうし、まだ成仏出来ない祖母を可哀想と言ってくれました。でもその顔は恐怖で強張っていました・・・」
 先輩は眉を潜めて自嘲するように笑った。
「そこで初めて私達は目が覚めました。いつまでもこの世に留まって欲しいというのは私達の感傷に過ぎない。他人からすればただの恐怖体験でしかないと・・・。後々他の者が見て妙な噂を立てるものが出るかもしれません。うちは接客業です。一度変な噂がでたら払拭するのは容易ではありません。そうなれば経営者として見過ごすことは出来ません。家族で話し合い、何とかしようと決めました」
 そこでどこへ相談するべきかと言う時に私に連絡が来た。それまで全くお互いに連絡を取って無かったので驚いた。困惑したがそれでも久しぶりに声が聞けて嬉しかったし、事情を聞いたら力になりたかった。
「祖母は倒れてから一度も目を覚ますことなく亡くなりました。もしかすると亡くなったことに気付いてないのかもしれません。もしくは何か気掛かりなことがあるのかもしれません。どうか彼女を成仏させてあげて下さい」
 先輩は私達に向かって改めて頭を下げた。

「分かりました。お引き受けしましょう」

 リンさんの言葉にぱっと先輩の顔が綻んだ。



この話は理系のyさんのコメントからヒントを得て、ナルと麻衣を離れ離れにする理由に論文を使うことにしました。どもどもです!
あ、変なとこあったら指摘してくださると嬉しいです。

2012.4.24
× 展示目次へ戻る ×