二人のはじまり 02



「お休み~」
「ああ」
 風呂上りにパジャマ姿で挨拶するとナルは書類から目を上げずに返事した。無視されないのだから良い方だろう。
 気にせず寝室に入りベッドに腰掛けた。
 そのままボスンと寝ころび、ふと横を向くとナルのベッドが目に入る。
 結局あのまま言いくるめられて寝室を一緒にさせられてしまった。
(天然なくせに頭いいって最悪!)
 直球で理屈を投げたらホームランを打たれるし、心情に訴え変化球を投げたら見逃しフォーボールとられて出塁されたような感じ。投げ疲れて押し負けたようなもんだ。基本押しに弱いナルだけど、こうと決めたら勝てないほうが多い。それは主に仕事面で発揮されるがプライベートでも有りなようだ。
(思うに、ヤツは書庫を失いたくなかったに違いない)
 そう言ったらうっすら笑って
「普段ほとんどリビングにいるんだ。寝るためだけの部屋なら寝室を共同で使用したほうが合理的だろう?」
 とか言いやがった。最初の同居条件はどこ行った?だ。
 悔しいことにナルが選んだベッドは最高だった。
「とりあえず使ってみろ」と押し付けられたベッドは弾力が最高でふとんもふかふかで、私が引越の時に持ってきたせんべい布団に戻る気を萎えさせた。その気配が伝わったのだろう「問題ないな」で片付けられてしまった。
(物で懐柔されてる・・・?)
 ゴロンと寝転がりナルのベッドの方に向く。ベッドの主はまだリビングだ。
 ナルは私より遅く寝ねて、私より早起きだ。平均睡眠時間7時間と4時間じゃ重なることの方が少ない。一人で寝室を使ってるような気分だ。だから当初反対してたような気まずさは皆無で、だらだらとこのベッドを使用し続けている。
 もともと変な心配はしてなかった。最初に言ったのは牽制の意味が大きく、本当に恐れていたわけじゃない。
 それに反抗しきれない理由が一つだけあった
『もしかするとジーンが出てくる夢が見られるかもしれない』
 そんな考えが頭をよぎったからだ。
 ケンブリッジの実家では一度だけジーンが寝ている夢を見た。寝室を一緒にすれば同じことが起こるのではないか?そんな期待のようなものが微かにあった。
 だが実際は普通の眠りが訪れるばかり。少しがっかりしたけどやっぱりなとも思う。ジーンの生家は彼の残留思念とお墓が近かった。だから調査の時のような”場”のようなものが出来たから夢が見れたのだと思う。このマンションはナルの記憶しかない。当然の結果だった。
 成り行きとはいえ婚約者?の寝室でナルではなく彼の兄のことを考えている…
 その気まずさに、麻衣は反対側に寝返りをうち瞼を閉じた。

 * * *

 寝室に入ると聞き慣れた麻衣の寝息が聞こえた。
 最初は頑迷に反対した麻衣だが、実際にこの寝室を使用しはじめたら何の警戒心も無くよく寝ている。自分が寝室に入っても、横で着替えても、全く起きる気配はない。事務所で居眠りしている時と一緒だ。近づいてどやしつけるまで平気で寝ている。
 口ではああ言ったが、麻衣は僕を全く男として見ていない。
 男女の機微に疎くてもそれくらいは分かる。
 麻衣が同居の条件に挙げた『私を好きになって』も言葉通りの意味ではなく、自分に関心を持って欲しいということだろう。仕事の部下として、実験の被験者として、ジーンという秘密の共有者として、自分にしては珍しく個人的な関心を持っている方だ。お互いが特別な位置にいるのも理解している。しかしこれだけでは結婚生活を営めるかといったら否だろう。麻衣が抱える危惧も当然だ。
 ではどうすればいい?
 具体的な方法は思いつかないが、家族のように暮らしていればなんとかなると踏んでいた。いずれ麻衣は必ず絆されて結婚に頷くだろう。それは疑いようがない。
 何故なら麻衣は家族の情愛に飢えている。それは逆を返せば家族という愛する対象を欲していることだ。人は身近な存在に愛着を持つ。ましてや一緒に暮らしていれば尚更だ。ジーンを想うような愛情は生まれずとも、擬似家族的な情愛は生まれるはずだ。いや、すでに生まれていると言ってもいいかもしれない。だから同居も受け入れたし、寝室を共にするという非常識な提案も受け入れた。
 僕が麻衣を無視できないように、麻衣もまた僕を拒絶できない。
 いや、見捨てられないというべきかもしれない。
 自分が一般的に見て性格破綻者だという自覚はある。研究以外の大半は僕にとって意味を持たず、研究以外に割く時間も興味も持たないため、人とのコミュニケート能力に欠け、それを分かっていながら改善する気もないのだから当然の結果だろう。お陰で本国では興味本位で近づいてきた者はすぐ離れていってくれたし、何人ものアシスタントが僕の性格と合わずに辞めていった。僕に話しかけるのは僕の性格には拘らず研究に興味しかない本物の研究者がほとんどだ。良い例がアレクだ。
 しかし麻衣は研究者でも何でもない。麻衣は最初から僕に食って掛かり、何度も喧嘩をしながら、時には今度こそ辞めるかという衝突もしながら、今も辞めずにいる。あの図太さは評価に値する。
 だがそれだけではないと気付いたのが英国での日々だ。以前からその傾向はあったが確信したのは婚約の時だ。普通なら拒絶して当然なのに、口では嫌だと言いつつも完全には拒絶しなかった。僕の窮状を知ってる麻衣は拒絶出来なかったのだ。
 それさえ分かれば十分だ。
 今は男女の情愛は無くとも、ちょっとした切欠さえあれば必ず麻衣は自分になびくだろう。問題は大半の女性に有効なこの顔と体は麻衣にはあまり意味がないことだ。おかげで未だ有効な手が打てずに現状維持のままだ。だが時間の問題だろう。一緒に暮らしていれば何がしかの機会があるはずだ。
 それに時間がかかった方が自分にも都合が良かった。
 首尾よく麻衣が自分になびいても一つ問題があった。

(自分は麻衣を女として見れるのか?)

 機能に問題は無いので結婚生活に支障は無いと麻衣には話したが、正直に言えば試してみないと分からないのが本当のところだ。過去に検査した時は触覚によって無事に達することは出来た。麻衣に触れるのに嫌悪感は無いから大丈夫だろうとは思う。だが不安が無いかと言えば嘘になる。
 反対側のベッドで眠る彼女を見る。
 健やかな寝息に合わせ胸が上下している。その胸は平らな自分のものとは違い、ささやかながらも肉の盛り上がりがあった。自分にとってそれは麻衣が女性であるという認識を持たせるものであり、それ以上でも以下でもなかった。
 性行為に全く興味がない自分にとって女性の胸の凹凸はただの脂肪に過ぎない。柔らかな体も、異性の体臭も、恐らく可愛いらしいと表現されるだろう顔も、見ていて何の衝動も湧き上がらない。
 こうして寝姿を見ていても、『これは麻衣だ』『寝汚い』、そんな陳腐な感想しか思い浮かばない。
 これは成人男性としては異常なのだろう。

 以前、麻衣が男性に乱暴されて亡くなった女性と夢で同調した時に軽度の男性嫌悪性になったことがある。
 男性に近寄られると、特に背後から近寄られると嫌悪感で体が硬直したらしい。特に喫煙癖のある男性が駄目だったそうだ。喫煙癖のある犯人に追いかけられ、背後から襲われたせいだろう。押し倒された時に時に煙草の臭いがした記憶が鮮明に残ってたそうだ。見知らぬ男性は当然だが、親しい男性、リンや安原さんにぼーさん、当時の交際相手でさえ、急に近寄られると体が硬直してしまう。相手が知り合いだと分かると硬直はとけるが、それでも男性の体臭が嗅げるほど傍に寄るのは少し怖いと話していた。
 当初男性嫌悪性になったことを隠していたが、気付いた自分が幾度かカウンセリングし、さほど時間をかけずに完治した。夢で同調した女性は襲われ引き倒された時に後頭部を打ちつけたことが原因で絶命したので、暴行を受けている最中は殆ど意識が無かったらしい。またジーンが行為の直前に同調から麻衣を引き剥がしたので、彼女はあのおぞましさを同調せずに済んだのが幸いだった。
 あの時麻衣は『ナルは平気、怖くない』と不思議そうに零していた。麻衣は自分がナルを男としてみていないせいだと言っていたが、正確には違う。
 麻衣には話さなかったが明確な理由が二つある。
 一つは僕が菜食生活なせいで体臭が少ないこと。
 もう一つは僕が麻衣を、いや女性全般を性的な対象として見ていないことだった。
 麻衣は本能的に自分の危険を察知する能力に長けている。あの時の麻衣は『自分を性的に見る男性』を敵とみなしていた。自分はそのカテゴライズの中に入らないことを麻衣は本能的に察知したのだ。彼女の無意識の能力はいつも自分を驚かせる。
 立ち上がり麻衣の枕元に立ってみる。
 近くで見ると呼吸で揺れる睫毛まで見えた。しかし抱く感想は変わりない。『涎は出ていないな』『呑気な寝顔だ』など、事実確認の範囲に過ぎない。これに少しでも性衝動が湧き上がれば麻衣は目覚めるだろう。
 手を伸ばし、そっと麻衣の頬に触れてみる。
 柔らかくすべらかな肌は自分には無いものだ。体毛が薄いとはいえ自分なら髭のざらつきがある。それがない。
 次に上掛けから出ている手の平に触れてみた。自分より小さく、細い指。手の平をスイッとなぞるとピクリと指が反応し、寝返りをうった。くすぐったかったのかもしれない。
 英国で麻衣を抱きとめたことがある。霊の影響もあるかもしれないが、その柔らかさに、甘い香りに、体がざわついた。あれが性衝動かもしれない。だが今はあの時のような感情はこみ上げない。
 麻衣なら触れてみてもいい。
 今自分が思うのはそれだけだった。
 ナルはため息をついてベッドから離れ、自分のベッドに入り込み眠りについた。

 実はナルがこうして麻衣に触れるのは初めてではない。
 それどころか寝室を共にしてからは毎日のように行われていた。
 女性が寝ている間に顔や手に触れるなど褒められたことではないが、ナルなりに麻衣の要求に答えようと考えた末のある種の実験だった。
 この夜な夜な繰り返される実験に本人が気付いていないのは幸か不幸か、答えられるものは誰もいなかった・・・。



2012.4.4
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