彼女の決断 |
(ああ落ち着くなぁ・・・) 麻衣はごろんと寝転がった。目をつぶって息を吸込むと、畳とホコリと木のニオイ。約一カ月ぶりの我が城は懐かしい臭いに満ちていた。横をむくと畳の毛羽立ちが目に入る。風呂無しトイレ共同の六畳一間でも、十五歳から五年間過ごした場所だ。どんなに便利で快適なナルのマンションでもここまで落ち着くことはない。 このまま寝てしまいたい誘惑にかられるけど、欲求に抗って上半身を起こす。今日はこのまま寝るわけにはいかなかった。 麻衣はイギリス土産とコンビニで買ったビール(発泡酒の倍の値段がするほう!)を手に向いの部屋の扉を叩く。すぐカラリと扉が開きカズちゃんが笑顔で出迎えてくれた。 「やぁ谷山、お帰り~」 「ただいまカズちゃん!」 カズちゃんこと和美は麻衣の高校のOGだ。麻衣と同じく両親を亡くし叔母のところに身を寄せていた。高校から自立してこのアパートの住人となる。社会人になり通訳や英語教育の仕事で生計を立てるようになった今でも、大家の人柄を慕いこのアパートに残り続けている。麻衣を妹のように可愛がり、リベラルな性格で相談しやすくジーンのことも話せる数少ない相手だった。 ひとしきり再会の挨拶をすませ英国での土産を渡した。 「で?土産の他にビール様を献上しにきたってことは何か聞いて欲しいことあるんだろ?」 「話しが早くて助かる。いろいろあってさぁ・・・」 私はカズちゃんに英国であった出来事を長い時間をかけて話した。カズちゃんはビールを飲みながら黙って話を聞いてくれた。 * * * 「・・・どこのハーレクィーン小説かよって感じ」 「ハーレクィーンにしては恋愛成分が足らないと思うけど」 「相手の顔が良けりゃ十分合格点よ」 和美はニッと笑ってクイィッとビールを呷った。 「で?谷山は何を悩んでるのさ。何故同居に頷かない。弟くんに結婚迫られて悪い気はしてないんだろ?」 「うん。嫌だな~とは思わない」 「じゃあいいじゃん。何を迷うのさ」 「同居するのは嫌じゃないの。でもそしたら済し崩しに結婚しちゃいそうで嫌なの」 「まぁ・・・ありそうだな」 「そもそもナルも私もお互いに好きじゃないんだよ?そんなんで結婚を前提に同居なんておかしくない?」 「何言ってんの。谷山と結婚したいんだから十分好きだって。谷山だって嫌がってないんだから弟くんのことそれなりに好きだろうに」 「でもそういう好きじゃないもん・・・」 「何とも思ってなかった相手をひょんなことから異性として意識してしまうなんてよくある話だよ」 「ナルには絶対当て嵌まらないと思う」 和美は「ん~?」と唸りながら首を捻った。 話を聞いてる限りでは例の弟くんと谷山の関係は良好のように見えた。元々和美は弟くんと上手く行けば良いと考えていた。恋人の振りをすると聞いた時点でいずれ本物になるだろうと予想していた。それが今度は婚約したという。騙し打ちで婚約したそうだが嫌がってる様子はない。なら照れてるのかと思っていたがそうじゃないらしい。 谷山はずっと家族を欲しがっていた。彼女が思うほど家族なんて良いもんじゃないけれど、幼い頃に突然喪った家族の温もりを忘れられない気持ちは分かる。憧れるのも無理は無い。 弟くんは性格に難はあれど麻衣に相応の好意を持ち、収入その他に不安は無い。厄介な初恋の存在はあるが、事情通な弟くんとなら大丈夫だろう。何も問題はなさそうに思える。しかも弟くんの家族は麻衣の理想に近い暖かな人たちで、谷山のことをとても可愛がってくれたらしい。こんな好条件は滅多にない。 谷山は素直な気質なので、好意を持たれて相手に不服が無ければすぐ結婚しそうなタイプだ。恋愛感情は持ってないというが、傍から見れば十分弟くんのことを好きなように見える。結婚してもいいかな?くらいに思っていいのに何故固い顔をしているのか? (まだ学生だしびびってんのかね。無理もないけどさ) 谷山の最初の彼氏の時とは違う。十代で希望職がある谷山は彼を選ぶことは出来なかった。彼の為に今の自分の環境と夢を捨てろなど酷な話だ。あの時は和美も賛成は出来なかった。だけど今回は応援したい。麻衣が尻込みしているなら尻を叩くのが自分の役目だろう。 「お試し同居くらい気軽にすればいいのに、谷山はなーにをごねてるのかな?」 「別にごねてるわけじゃ・・・」 「何か怖いことでもあるの?」 「・・・・・・・」 ビンゴだったらしい。和美の正面に座っていた麻衣は黙り込み俯いてしまった。 「何に対して?もしかして襲われちゃうかも!とか心配してるとか」 和美が冗談めかして言うと、麻衣は顔を上げてぶんぶんと首を振った。 「まさか!そういうタイプじゃないよ」 (笑われるのもどうかと思うけどね、弟くん) あり得ないと笑う麻衣に笑ってこっそり和美は思ったけど口には出さずにおいた。 「じゃ何が怖いのさ」 「・・・上手くいかなかったらどうしよう、とか思っちゃう」 「それを試すためにも同居はいいんじゃない?結婚前にわかっていいじゃん」 「そうなんだけどさ・・・上手く行かなくてナルとの関係まで壊れたら嫌なの。そうなったらナルはキッパリ私の事切り捨てると思うんだ。それが怖い」 「谷山は今の関係のままでいたいんだね。でも家族じゃあるまいし、同じ状態がずっと続く関係なんかないよ?」 「・・・分かってる」 「上司と部下は仕事を止めてしまえばお終い。友達は終わらないかもしれないけど所詮友達だ。ずっと傍にはいられない。家族だって壊れる時もある。壊れない関係なんて無いよ」 「うん・・・でもさ、好きでも無い人と夫婦になって上手くいくと思う?」 「相手と谷山次第じゃないか?」 「………」 「谷山は弟くんのこと好きになれそうにない?」 また麻衣は俯いてしまった。そして首を小さく振った。 どうやら谷山は脈有りのようだ。なら弟くんに問題有りなのかもしれない。 「なぁ、谷山。怖いだろうが一歩踏み出してごらん」 「分かってるんだけど・・・やっぱり怖い」 「谷山・・・」 「だって・・・ここ出たらもう帰る場所なくなっちゃうもん・・・」 このアパートは麻衣にとって実家のようなものだった。だけどナルの家に引越たら部屋は誰かに貸し出され、麻衣の居場所は無くなる。帰ってきたら「お帰り」と言ってくれる大家のおばぁちゃんがいて、ドアを叩けば和美がいてこうして相談に乗ってくれる。このアパートは麻衣にとってかけがえのない場所だった。 新しい生活に一歩踏み出すのはそんなに怖くない。 でもこの帰る場所を無くすのはとても怖かった。 「馬鹿だね。そしたら私の部屋に居候すればいい」 「カズちゃん・・・」 「例の巫女さんや坊主もそう言うと思うよ?水臭いこと言ってんじゃないよ」 和美は麻衣の栗色頭をくしゃくしゃと掻き混ぜた。麻衣は俯いて表情はかくされたけれど、麻衣の膝に落ちた染みで見なくても分かった。 (谷山も私も、一人が二人になってまた一人に戻ることが一番怖い) 麻衣はナルのことを失いたくない。 でもナルが提示した新たな関係は互いに深く傷つく可能性がある。傷つくからこそ深い関係が築ける。でもそれを恐れててはずっと一人だ。それも分かっている。だから前に進むしかない。 「ほれ、乾杯しよう!」 「何に対して?」 「麻衣の嫁入り先決定?」 「気が早いから!もしナルとそうなってもまだまだ先だから!」 いずれ遠くない未来に本当に祝う時が来るだろう。そう思うと和美は笑みが浮かんで仕方なかった。 (君の門出に幸あれ) 和美は心の中で高らかに叫んで乾杯した。 翌日、麻衣は大家に引越について相談をした。 お婆ちゃんは「三ケ月は新規で募集しないから何かあったら帰っておいで」と言ってくれて、また泣いてしまう麻衣だった。 |
2012.2.2 |
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