博士は提案する |
「今朝は和食だよ~」 席に座ると麻衣が僕の前に味噌汁の椀と茶碗を置いた。 向かい合って朝食をとりはじめると、麻衣が味噌汁をすすりながら 「ねぇ、考えてみれば、負けたら書類にサインすると約束はしたけど、何でも言う事を聞くとは言ってないよね?」 麻衣が唐突に質問を投げかけて来た。 朝食の場に相応しい質問とは思えない。しかもあれから五日間も経っている。今更すぎる抗議だった。 「確かに約束したのは書類にサインすることだけだな」 「じゃあ私が婚約に承諾すること無かったよね?」 ナルは箸を操る手を止めて口の端を僅かに上げる。 「結婚同意書にサインの方が良かったか?」 「・・・スイマセンデシタ」 麻衣は箸を噛みながら「藪蛇だった・・・」と呟いた。あの時サインするじゃなくて何でも言う事を聞くにしてたら速攻で結婚させられてたかも・・・という怖い現実に気付いたようだ。それは恐ろしすぎる。サインで良かった!と麻衣は胸を撫で下ろした。 声には出さずとも考えてることが丸見えな様子の麻衣にナルは呆れる。 帰国してから三日、麻衣との同居生活は上手く行っている。三週間以上デイヴィス家で一緒に暮らしてたし、夏に居候してたので慣れたものである。 自動的に食事が用意され、住居環境を整えられるのは楽でいい。 とはいえ、麻衣も怪我人だ。 麻衣は頭の怪我だけなら検査も含めて三日程度で退院できるはずだった。しかし意識がないので発見が遅くなったが足をくじいているのが分かった。二階に寝泊まりしていたしすぐ歩きまわる性分の麻衣なので退院したら歩きまわって悪化させる可能性がある。それに加えて麻衣の体は疲労状態にあり、暫く安静にしていた方が良いと医者に言われた。 「ならナルが退院するまで一緒に入院してれば?」と提案したのはまどかだ。 麻衣は嫌がったが、『上司命令だから。逆らったら減給よ♪』とまどかに脅され、『自分で思っているより消耗してるはずです。休んで下さい」とリンに諭され、『毎日お見舞いに行ってやるから』とアレクに宥められ、『ナルが無茶しないよう見張ってて?』とルエラのお願いに渋々頷いた。 最初は麻衣も「つまんない」と文句を言っていたが、倦怠感がありたびたび眠気に襲われると、思った以上に消耗しているのだと自覚し言わなくなった。それからは特別室での入院生活を楽しんでいた。 僕のPKに対峙し、破るように九字を放ったのだから消耗しないはずがない。人には休め休めと煩いくせに自分のことは無頓着なのだから呆れる。 完全に治ってない足で二人分の食材を買出しに行こうとした時も呆れた。 仕方なく付き合って荷物を持ってやると麻衣は目を瞠って「明日は雨だ!」と叫んだ。失礼な、怪我人への配慮として当然だ。怪我を悪化させて面倒をみるのはご免だ。 麻衣は自分の事に関して妙な遠慮をする。妙な線引きをするというべきか。 これがジーンとの違いであり、まだ麻衣が家族でない証拠でもあった。この線引きに違和感を覚えるのが我ながら不思議だ。 「麻衣の月々の家賃・水道光熱費・食費を合わせるとどのくらいだ?」 「へ?突然何よ」 「いいから答えろ」 「5万だけど・・・」 家賃が3万5千円、水道光熱費・食費を入れて大体5万円くらい。本来ならこれに通信費の携帯代が入るけれど、SPRからの支給品なので基本使用料が事務所持ちだから些少だ。あと交通費に交遊費や被服費を入れても7万円を超えない。 「そんなものか」 ナルは驚いたように軽く目を見開いた。給料の内訳を知られているのでもう少しかけていると思っていたらしい。奨学金を貸りて大学へ行っている以上、麻衣は借金がある。無利子だけど出来るだけ早く返したい。月に13~15万円程度のお給料をもらってても月に5万円以上貯金することを目標にしている。授業料の支払いもあるし、突然お金がかかる時があるので日々の努力が大事なのだ。 「風呂なしトイレ共同なアパートだし、身寄りのない人専用だから家賃があり得ない安さなの」 学校と契約しているお婆ちゃんがやってる下宿で、高校からずっとお世話になっている。ナルはアパートに何回か来た事があるので、理解したというようにひとつ頷いた。 「貯蓄額、増やしたくないか?」 「…何か予想がつくんだけど一応聞こうか。どうやって?」 「ここに住めばいい」 「却下」 麻衣は予想通りの答えに速攻断った。対外的には婚約者でも内実は恋人でも何でもない人と同居なんて問題ありまくりだ。 ナルは片眉を上げて何故?という仕草を見せた。 「家賃、水道光熱費、食費は僕持ちでいい。その代わり家事を担当してもらう。月々5万、卒業するまで約30ケ月、単純計算で150万円の貯蓄が出来るのに?」 「ぐ・・・」 それだけ貯められれば貯蓄と合わせて即金で借金が返済出来る。非常に心惹かれる誘い文句だ。 「ん?卒業するまで?」 「婚約期間が卒業までだからな」 「あ、そうか」 結婚するかどうか卒業までに考えとけと言われていたのを麻衣は思いだした。 「僕は家の雑事に煩わされる時間が減り、麻衣は貯蓄が増える。婚約してれば対外的に問題は無いし、リンも反対しないだろう。お互いの利害が一致している。一挙両得というものでは?」 「まぁそうなんだけど…」 やっぱり躊躇ってしまう。 内実は同居だけれど、傍から見れば同棲にしか見えない。 (外聞悪いよねぇ…) その他にもいくつかの懸念がある。 「空いてる部屋ないじゃん」 今は書庫に荷物を置いて、リビングの大きなソファで寝ている。泊るだけならそれで十分だけど、住むとなったら私物を置くスペースが欲しい。 「書庫を整理すればいい。何とでもなる」 「でもさ、リンさんは良くてもぼーさんが許すとは思えないよ?」 「ぼーさんには関係ない。黙らせる」 何だかんだ言ってぼーさんはナルに弱い。尊敬する博士様だから当然か。ナルが言うなら大丈夫かもしんない。 「居候じゃなくて同居なら互いの協力が必要だと思う。でもナルが協力するとは思えないんだけど?」 「話を持ち出したのは僕だ。必要とあれば協力する」 その必要か否かが勝手に判断されそうで心配なんだけどね。でも自分から言ったからには大丈夫かもしれない。 「ちょっと考えさせて。出来るだけ早く答え出すから」 「分かった」 |
2012.1.24 |
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