彼女は考える

 ナルに私のジーンへの想いを話したら「信仰に近いな」と言われてしまった。

 特に決まった信仰を持たない私には『信仰』がどういうものかよくわからない。
 だからその言葉に頷いたのではないけれど、一瞬泣きたくなるくらい動揺してしまった。
 「それは恋じゃない」とジーンへの想いを否定された気がしたからだ。

 ジーンへの想いは恋だ。
 誰にどう言われても私はその考えを譲らなかった。
 昔と違って、今の自分は生身の人とお付き合いをしたことがある。
 初めて付き合った大輔先輩に、手を握られたり、肩を寄せられたり、抱き締められたり・・・、どれも暖かくてとてもリアルで恥ずかしくてたまらなかった。でもそれ以上に愛情を受け取ったり、求められることが嬉しかった。すごくドキドキした。こんなにドキドキするならこの人が一番好きなのかもしれないと思った。

 でも、それは違うとすぐに思い知らされた。
 ジーンと夢で再会したたびに、先輩と会う以上に胸が高鳴る。
 会えたら嬉しさで胸がいっぱいになる。彼を思い出すだけで笑みがこぼれ胸が暖かくなる。
 ジーンは誰よりも私の胸を高鳴らせる。
 これを恋と言わないで何が恋というのだろう。

 だから自分の気持ちを『恋ではない』と疑ったことは無い。
 ただ疑ったことがないからって、ジーン以外を好きになれないとは思っていない。

 現実問題、ジーンは私を抱きしめてはくれない。
 手で触れられる暖かさは、安らぎを私にもたらしてくれる。大輔先輩に初めて抱きしめられた時、じんわりと体温がしみて。その暖かさに泣きたくなってしまった。自分がいかに人の暖かさに飢えてたのか思い知らされた。
 ジーンより好きになれなくても少しずつ彼の事を好きになれると思った。
 今はまだ全てを彼に委ねることは出来なかったけれど、少しずつ、彼の存在が大きくなっていった。そしていつか胸の高鳴りよりも、安らぎを選べる日が来るかもしれない。そう思っていた。

 でもその日は来なかった。これもまた仕方のないことだ。
 大輔先輩に全く未練が残っていないとは言えないけれど、あの時の選択を私は後悔していない。こんなあやふやな感情のまま人生を彼に委ねることを選べなかった。3年前の私ならそのまま付いて行ったかもしれないけれど、今の私には出来なかった。

 だから私はまた、ジーンより好きになれるかもしれない、安らぎを私にくれる人が出来るのを待つことにした。
 だけど上手くいかず、短期間の中で付き合って別れるを繰り返してしまった。
 綾子には怒られ、真砂子には心配された。自分でも寂しさを紛らわすためについOKしてしまったという自覚はあった。それでも良い人達だったから変な目に遭わずにすんだけれど、そうでなかったかもしれない。先輩と別れたばかりの私はそれほど不安定だった。

 そのこともあって、反省期間としてナルと(仮)で付き合うのは悪くないかもと思った。
 それにナルのプライベートに踏み込む絶好のチャンスだった。
 結構長い付き合いなのに、ナルとは個人的に仲良くしたことが殆どない。リンさんからすれば十分してる方だと言うけれど、周囲の人間とは出来るだけ仲良くしていたい私としては全然物足らないレベルだった。あっちは私の事を友達とは思ってないだろうけど、私はナルの事はただの上司だとは思っていない。友達・・・とも違うけれど、仕事仲間と言うだけじゃない。ナルが痩せるとお節介でご飯を作って口に突っ込みたくなるくらいには心配になる。ビジネスライクで割り切れるほどナルに無関心ではいられない。

 そして私は(仮)恋人を建前にしてプライベートに、ほんの少しだけ、足を入れることができた。
 もっと予防線を張られたり隠されるかと思ったけれど、ナルは自分からは言わないけど隠す気は特にないらしい。隠す方が面倒だとでも思ってるのかもしれない。ナルは仕事の邪魔さえしなければとことん無頓着だ。そうして私はナルと少しだけプライベートな時間を共有することができた。おかげで仕事場以外でのナルをたくさん見ることができて面白かった。
 ナルの生活能力の低さに笑い(特に掃除と食事)、研究以外の無頓着さに笑い(黒服ばかりの真相とか色々)、意外な習慣に笑った(太極拳なんて健康すぎて似合わない)。予想外な義理堅さに喜んだ。特にプレゼントを貰えるなんて思わなくて、嬉しくて暫くは指輪を見てはニヤニヤしてしまった。それを見られて鼻で笑われたので気をつけているけど今でも笑ってしまう時がある。
 初めの頃はあのナルのプライベートに触れられてちょっと浮かれてたと思う。
 でも時間が経つにつれ、自分の困った感情にも気付いてしまった。

 なんというのか、ナルの隣は居心地が良すぎて、困る。
 特に一緒に暮らした2週間は居心地が良すぎて困った。ナルに「夏の間中いるか?」と言われて、つい「うん」て言いそうになって困った。

 ナルと私は4年も傍にいれば気心は知れてるし、お互い異性として見てないから気楽だし、遠慮なんかしてたら会話ができないので普通の友人より強気で好き放題言い合える相手だ。けれど会話すれば皮肉が飛んできて腹は立つしムカつくことのが多いナル相手に居心地がいいなんて感じたことはなかった。
 でもプライベートで会えば自然と仕事以外の会話が増える。それに共感したり、いいなと思う瞬間がある。どれもほんの些細なことだけど、そういうのが重なると『居心地がいい』と感じてしまう。ナルも協力してもらってる手前、少しだけ私に気を遣ってくれるから余計にそう感じてしまう。

(おかーさんとか、ジーンのことも気軽に話せたしね)

 ナルは私の柔らかい位置に、私が知る誰よりも近くにいた。
 知ってはいたけれど改めて気付かされた感じ。

 でも何故それが困るのか?
 それは私の気持ちが一方通行だからだ。

 この適度につかず離れずの居心地のいい関係は期間限定。
 ナルか私に本当の相手が出来るまで、もしくはナルが帰国してしまうまで。
 英国に戻ってしまったら上司と部下の関係もなくなる。

 友達でも、もちろん恋人でもない。上司と部下でもなくなる。仲間と呼ぶには差がありすぎて恐れ多い。そんな名前の無い関係は長続きしない。日本にいればまだいいけれど、英国に行ってしまえば泡と消えるだろう。それが寂しいのだ。別れのない人生なんかないけれど、相手に何も残せないのは寂しい。

(私はナルの何になりたいんだろう?)

 上司と部下だけじゃ寂しい。
 恋人になりたいわけでもない。ナルは私に安らぎを与えてくれるようなタイプではない。
 友達・・・って柄でもない。
 ぴったり寄り添えるけど混ざらない。弾けれはすぐ消えてしまう。
 シャボン玉みたいに頼りない関係だ。

 そんな微妙な位置にいるナルに「恋ではない」と言われて動揺してしまった。
 だってこの恋心に気付かされたのもナルだった。ならばこの恋心に引導を渡すのもナルなのかもしれない。そんなことをふと思ってしまった。

 とはいえ、この『恋』が終わったとは思えない。まだ大丈夫。


 * * *


「そんときナルって何て言ったと思う?」
「さぁ、何ですやろ」
「『麻衣に心配されるほど落ちぶれちゃいない』よ!だったらちゃんと寝てご飯食べろっての!全力で遊んでパタっと倒れて寝ちゃう子供じゃないんだし、資料読みながら立ち寝してる奴が言うセリフじゃないよね」
 先日あったナルとの遣り取りを愚痴っていたら、隣を歩くジョンにクスクスと笑われてしまった。


 私とジョンが向かう先はもちろん渋谷の事務所だ。実は校門待ち伏せ事件を知られてからずっと皆が入れ替わりで迎えに来てくれていた。
 皆が心配すると思って話すつもりはなかったのに、いつの間にか皆に知れ渡っていた。もちろん情報を流したのは安原さん。そして送迎をすると言いだしたのはぼーさんだった。
 私は大丈夫と断ったんだけれど
 ぼーさんに「馬鹿、危ないってーのに遠慮してる場合か。少しはお父さんを頼んなさい」と怒られ、綾子にも「そうよ。何かあったらじゃ遅いんだからね」と叱られ、真砂子も「そうしてもらいなさい。私もしつこいファンが付き纏った時は送迎してもらいましたわ」と諭され、ジョンが「こちらに寄らさせてもらうついでやさかい、気にせんといて下さい」と宥められた。最後のトドメにりんさんは無言で首を振った。もちろん『否』の意味だろう。

 でもいつまでもそんなの頼めないと言ったら
「とりあえず夏休みに入るまで様子をみましょう。その頃には終わってるでしょうし」
 と安原さんが言いだした。何がどう終わってるのかと聞いたら「僕からはなんとも・・・」と越後屋笑いをされてかわされた。

 因みに朝は人通りが多い時間に出るので大丈夫だから一人。バイトの帰りはリンさんが車で送ってくれる。リンさんの都合が悪い時はナルが送ってくれることになってるけれど、面倒なんだろう『うちくるか?』と言われナルん家にお邪魔した。行けない日はタクシーで帰れと言われた。合理的な御仁である。
 
 そうして一週間とちょっと、今日はジョンが迎えに来てくれる番だった。


「麻衣さんにかかればあの渋谷さんも子供のようでんなぁ」
「仕事以外はまるっきり子供だよ。ってゆーか、仕事が最大の娯楽なんだよ。そんでそのまま大人になっただけなんだよ」
「そうかもしれまへんなぁ」
「大人なんだから自己責任で放っておけばいいのにさ、放っておいたら倒れそうで怖いし。下手すると本当に倒れてるからこっちが心配して言ってんのにその言い草はないよね!」
「そうどすなぁ」
「ムカついたから仮眠ベッドに押し付けて重しになってやった」
「重し・・・、どすか?」
「ベッドに引き倒して毛布かけてその上に乗ってやったの」
「・・・大胆どすなぁ・・・」
「逆だったら重いし問題有りだけど、私なら平気でしょ?」
「そういう問題ですやろか・・・」
「ナル諦めて目瞑ったもんね。あれは私を押しやる体力もなかったと見た!馬鹿だよね!仕事馬鹿!何であんなになるまでやるかなぁ。いつか過労死しちゃうよ」
 麻衣は唇をとんがらして文句を言うけれど、結局はナルの身を心配してのことだ。ナルにすげなくされたことよりも、ナルが自分の体を大事にしないことに怒っている。彼女はナルの物言わぬ体の代わりに「休め」「食べろ」と指摘する。それが受け入れられなくてしょっちゅう本体と衝突する。そしてじゃれあいのような喧嘩を繰り返す。本人たちは真剣なようだがそれを見ているのはとても微笑ましくて、心がなごむ。二人が(仮)恋人になってからその回数が増えた気がする。
 ジョンはその場にいなかったことを少し残念に思いながら、はんなりと笑った。

「なんというのか・・・麻衣さんは渋谷さんのお姉さんのようどすなぁ」
「ふぇ?」
「妹さんでも良いですけど、兄弟みたいに仲がええように見えます」
「あんな面倒な手のかかる弟もお兄ちゃんもヤダな」
「そういうとこが、です。腹が立つけど放って置けなくて、酷いこと言われても見捨てられない。つい心配してしまう。家族ってそういうもんでっしゃろ」
「え・・・・・・・・」
「家族ゆうもんは好きだけじゃいらしまへん。鬱陶しかったり腹が立ったり困ったりすることも仰山あります。それでも家族ですよって、気になる、放っとけない、縁が切れない。愛している。家族ゆうもんはそういうもんです」
「・・・・・・」
 そういえばそうだったかもしれない。
 家族がいたのは14歳の頃まで。物心ついたときからおかーさんしかいなかった。だから普通の家族より親子仲が良かった方だと思う。私はおかーさんが大好きだった。でも、生きていた頃は喧嘩もしたし、うっとうしいと思うこともあった。
(ナル相手に比べれば全然少ないけれどね)
 大好きだけじゃなかったのは確かだ。 
 ナル相手は腹が立つことばっかりだけど、こんな奴もういい!って見捨てられない。気になる。好きか嫌いか言われたら好きだけど、何か素直に言いたくないような、複雑な気持ちになる。
(家族みたい、か・・・・・・)
 家族なら良かったのに。家族なら離れてても繋がっているという安心がある。こんな不安定な気持ちになることはないだろう。ナルに「余計な御世話だ」と言われても詰まることはない。「家族なんだから心配して当然でしょ!」と逆に叱ることもできる。

 今みたいな(仮)恋人なんかじゃなくて、確かな関係が欲しかったんだ。
 でも実際は赤の他人で、期間限定の関係でしかない。
 知らず、溜息がでる。
「・・・ジーンと結婚できたらホントの家族になれたかもしれないのにね」
 つい小さく呟いてしまった。
 その有り得ない想像は、間違いなく私の本音だった。
 その小さな呟きはジョンにも聞こえたが、彼は何も言わず、またはんなりと笑った。

  


 辿りついた事務所で、ルエラからの電話があった時にはタイムリー過ぎて驚いた。
 そしてその内容に更に驚かされることになる。






END



後半三分の一がうまくまとまらなくてやけに時間がかかった一品です。後で修正するかもー。
2011.3.6
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